浦賀和宏松浦純菜の静かな世界』。読んでいる間は、文章が退屈だとか、内容が幼稚だとか思っていて、うんざりしつつも、でも、ある意味では凄く上手くて、小刻みに視点(目先)を変えてリズムをつくり、時間の順序を微妙に前後させたりしつつ、細かいパーツ(それぞれのパーツはひどくチープなのだけど)を一つの図像へと組み立ててゆく構成に引っ張られて、最後まで読んでみると、不思議と登場人物たちに愛着を感じはじめているのに気づく。登場人物のキャラクターといえば、ノベルス系ミステリではおなじみの、何かしらの外傷を持ち、幼稚で屈折していて自己中心的で世界が狭いという人物像で、これといった新鮮さもないうんざりするようなものだけど、事件を通じて登場人物が多少なりとも成長する手応えのようなものが描かれているのが(つまりここには「時間」が存在するのが)、この手の小説としては珍しくて、それが好印象に繋がるのかもしれない。
とはいえ、構成や技法ばかりががやたらと達者で、内容的には、まるで高校生が書いたかのような幼稚さだ(「学校」しか世界を知らない人の書いた話みたいだ)というひどくアンバランスな小説で、それが、おそらく主に十代なのだろう思われる読者にはリアルなのかもしれないけど、しかしその状況は、保坂和志の『カンバセイション・ピース』で、主人公の奥さんが、女子大生の姪に、あなたの友達なんてみんなあなたと似たり寄ったりなんだから、友達同士でいくら真剣に話をしても、そんなのあなた一人で考えてるのと大してかわらないのよ、というようなことを言うシーンを思い出させるようなものだ。ただ、繰り返すが、主人公の松浦純菜と八木剛士のわずかな成長のようなものが描かれていて、それも、よくある「成長という物語」としてではなく、実質のある、成長の手応え(=時間)として描かれているのが、面白いところだろう。(殺人だとか復讐だとかいうドロドロしてチープな素材を使いつつ、描かれているのは、親しい間柄でもふいに浮上する「他者」の感触のようなものであり、それに対する配慮-想像力の意味というような事柄だと思う。しかし同時に、それを「同一の外傷の共有」へと還元してしまおうとする傾向もみられるのだが。)
●この小説を読みつつ、思い出していた湯本裕二のテキスト(「抑圧・視線・欲堂」)の一部を引用する。http://www.juryoku.org/yumoto.html
《「萌え要素」としてのシミュラークルが、それ自身の力能として諸身体上を循環するなどということはありえない。
あくまで、「萌え要素」は抑圧物の「作品」表層への神経症的強迫反復として産出される。また、一方ではオタクの多形倒錯的な退行の視線の場への固着のための母のイマージュを投影する性的対象として消費される。(ちなみに、コスチュームプレイの現場で、レイヤーが「見せることを見る」のと、観客が「見ることを見る」のでは、その視線構成はまったく別の組成に依っており、両者を「萌え要素」の消費などと一括してしまったら、世界に視線はひとつしかなくなり、制御系での視覚運動の視線認知と、言語野での視線の意図の言語的処理という、二つの演算過程が、想像的にひとつの演算に圧縮され、その視線の理論は幻想となり、現実の他者は消去されるだろう)。
だから、オタクのいう「オタクの遺伝子」とは単に、「同一の外傷の共有」でしかない。そしてここで、オタクが「遺伝子」というシニフィアンを発声し、他のオタクの応答が聴取されるとき、オタク達の間で欲動の循環がその環を閉じ、個人の外傷の歴史性(欲望の変遷としての時間)は隠蔽され、空間は時間を圧縮し固定し、運命を立ち上げ、オタクはそこに囚われる。
村上隆には、「オタクの遺伝子」が無いというのは、だから、たんに知性による去勢の忌避である。彼は、呪術師から芸術家に変態し、美術史は、彼を、オタクとの鏡像関係からひきはがし、美に従属させる。 母に、見られることを、見ること、の欲望、それらを、美術史と共に見ることを欲望すること、アメリカへ向けて欲望を循環させ、時間を前に進め、描くことを未来そのものとすること。》