●久しぶりに「批評空間」の「モダニズムのハードコア」をパラパラと見ていたら、岡崎乾二郎が、もう、悟性で押せるだけ押すしかない、というようなことを言っていた。《ティツィアーノプッサンの絵の豊かさに比べとき現代美術がいかにも貧弱に見える》のは《まず認知のための特異点の数が全然違う》からで、《てっとりばやく言えば、コンピューターでティツィアーノを再生産するとき必要なアルゴリズムの数つまり手順数と現代美術のそれを比べれば、桁数が違うわけです。あきらかにプロセスがすくない。その程度の分析で解決できる問題の方が多いんですよ。》それに対し浅田彰は、そのような科学主義はたんにPCみたいなものの攻勢に対する裏返しに過ぎないのでは、という的確な突っ込みを入れているけど、この岡崎氏の発言は「気分」としてはとてもよく理解出来る。この座談会が行われたのは94年の10月と記されていて、もう十二年も前のことなのだが、この「気分」は現在の状況のなかで美術に関わる者としてますます切迫したものになっているようにも感じられる。ぼく自身、この発言に思わず帰依したくなってしまう。ここで言われているのは、もうこんな状況では、誰にも理解されなくてもいいから、ひたすら作品を高度にしてゆくことだけに突っ走るしかないのではないか、という「気分」であると思われる。「悟性」のみをはたらかせるということは「動物」になるということでもあって、つまり、他者に理解されたいとか、褒められたいという欲望から自由になることは出来ないにしても、それは「作品」とは別のところで済ますことにして、「作品」はそれとは切り離し、つまりそれを「他者への叫び」として組織することをやめ、それが理解不能なものになったとしても、ひたすら複雑で高度な分節性のみによって作品を成立させることを目指す、ということだろう。岡崎氏はこの時、《目的不明なまま、このごろ作品ばかりをつくっているんですけどね》とも言っている。ここで、作家は主体であることをやめて、動物に近づき、あるいは、ある遊戯的枠組みのなかでの高度な身体的技能のみを追求する運動選手に近づく、のだろうか。
●しかし、決して動物ではない運動選手にとって、その高度な技能を可能にするための、ハードな鍛錬や高い緊張の持続を可能にさせているものは、「勝ちたい」とか「モテたい」とか「認められたい」とか「金が欲しい」とかいう、卑俗な(人間的な)欲望の強さであり、それに支えられてはじめて、その競技に内在する純粋な運動性(悟性)に奉仕するような、高貴な技能やプレーが生まれるという側面を忘れることは出来ない。
●目的と行動は、しばしば乖離する。例えば、「モテたい」という目的でギターを手にした少年が、ギターにのめり込むことでその目的を忘れ、とても「モテる」ようなものとは思えない、ひたすらマニアックで高度なテクニックを追求しはじめてしまうことは、しばしば生じるだろう。しかしその時、少年をつき動かしているのは、ギターという楽器によって触発されたギターの「悟性」であるのか、それとも、「モテる」というのとはまた別の、マニアックな「男の子たちの集団」のなかで一目置かれたいという欲望なのか、簡単にどちらとは言えない。科学者が、真理の追求に自らの生涯を捧げるという時、それをつき動かしているのは、普遍的な「悟性」のはたらきなのか、それとも、自身に固有の何かしらの外傷を科学的、分節的な記述に身を捧げることによって隠蔽したいためなのか、簡単には判断出来ない。数学の問題を解くよろこびは、それ自体としてのよろこびなのか、それとも、それによって得られる賞賛へのよろこびなのか。
しかしここで、ギターのテクニックの体系や、科学的記述の進展や、数学の問題の解答への筋道は、それらを目指す主体の欲望の有り様とは切り離されて、それ自体として自律して存在している。だからそれは、安易に主体の幻想(主体の都合)によって梱包されることはなく、逆に、それらは常に主体を揺るがすものとなろう。
●ひたすら悟性のみをはたらかせて、目的もなく作品をつくること。しかしこのこともまた、ある状況に置かれた、ある主体の「気分」を表現している。少なくともぼくは、その言葉をそのような気分の「表現」として受け取ったからこそ、そこに引っかかり、「共感」を覚えたりもする。しかしそこで、そのような作家の態度(発言)ではなく、ひたすら悟性のみによって作られたその「作品そのもの」が目の前にあったとすれば、それが表現するものは、そのような「気分」とはまた別の何かとなるだろう。
●以上のこととは話がかわるけど、同じ本に載っていたマイケル・フリードの発言を、メモとして引用する。
《私にとって疑問だったのは、ミニマリズムがある意味で身体を基調にしていたという点ではなく、むしろ身体に対するその関与が、あまりに成功疑いなしのものだったという点なんです。彼らの作品は、成功疑いなしの効果を生み出す機械だったということです。そして私の美学は、今日にいたるまで、成功疑いなしの効果を生み出すような美術に反発しつづけてきたわけです。ある作品が成功疑いなしのように思えたなら、それは本質的につまらない作品ということです。》(ディスカッション:ミニマリズムとポップ以降の美術論)
これはある意味とても素朴な発言ではあるけど、こういう発言を読むと、クラウスなんかよりもフリードの方が(たとえ理論として弱いとしても)ずっと面白いと思えるのだった。