●朝は寒くて目が覚める。だからだいたい四時くららいには目覚めてしまう。その分、はやく寝る。このごろは十時頃には寝てしまう。ほぼ毎日、午前中たっぷり時間をかけて散歩しているので、最近、朝ご飯をちゃんと食べるようになった。ちゃんとといっても、ご飯にごま塩をかけたものと、インスタントみそ汁とか、そんなものだが。炊飯器は壊れたままなので、ご飯は土鍋で炊く。土鍋だと炊飯器よりずっとはやく炊ける。でも、焦げ付いたり、芯が残ってたりと、失敗することもある(土鍋でご飯を炊くやり方を調べたわけではなく、なんとなくやってみたら炊けた、という感じなので)。失敗してもそれを食べる。冬になると、散歩の時間が長くなり、頻度もぐっと高くなるのは、部屋が寒いせいだと気がついた。今日、この冬はじめて、暖房(電気ストーブ)をつけた。石油ストーブを使わないのは、買うお金がないということもあるけど、部屋には、油絵の具とか溶き油だとか「燃えるもの」がたくさんあるので、なんとなく抵抗があるから。今日、アパート全体の消防設備点検があった。
●昨日だったか一昨日だったか、もっと前だったか、朝のワイドショーみたいなので、森高千里が何年かぶりにライブをやったという話題をチラッと横目でみた。
ぼくには森高千里が理解できない。理解出来ない、ということにおいて、軽い苛立をおぼえながらも、ずっと薄い関心を持ちつづけていた。その存在は、確かに彼女以前には存在しなかった何かを提示しているように思えた。その、歌手活動、作詞活動、演奏活動が、どのような動機から生まれ、どのような欲望に奉仕し、どのような満足へと帰着しているのか、ということを想像することがまったく出来ない。そのための手がかりすら見つからない。そしてさらに分からないのは、森高千里の女性ファンの存在で、例えば、カラオケで「私がオバさんになっても」を歌うような人が、そのオリジナルを作詞し歌い演奏するアーティストに対し、あるいはその曲そのものに対し、あるいはその詞が語るものに対して、自己のどのような部分を投影し、それがその人自身のアイデンティティのあり様の、どのような部分を、どのようなやり方で支えているのかを、掴むことが出来ない。どうやら、森高千里的主体というのがあるみたいなのだが、それがどのような組成によって出来ており、どのような感触をもつものなのか、ということを実感として掴むことが出来ない。
例えば、松任谷由実とか竹内まりやとかなら、そこで語られるそれ自体としては(誰にでもあてはまる)紋切り型の物語が、しかし同時に、かけがえのない、特別でユニークな出来事-経験となって「私のもと」へと現れるという装置やレトリックが働いているのがみてとれるのだが、森高千里においては、物語となるよりも以前の、紋切り型の文言が、ただひたすらフラットに、単調に並べられているだけとしか思えない(その感じは、あの中途半端に鼻にかかったような、どこまで本気なのか判定不能な声や歌唱法にもいえるだろう)。そこには、私が特別(固有のもの)であるという感じが、ほとんどきれいに見当たらない。私の感情でさえ、滑らかに紋切り型の文言に置き換えられていて齟齬がなく、「ありふれてはいるけど、私にとっては特別」という感覚はない。極端に言えば、その作品には「面白い」と感じられるひっかかりや印がいっさいみあたらない。ここには(男性作家にはよくある、感情を否定したいという潜在的な「強い感情」、主体を否定したいという潜在的な「強い主体的意思」によって支えられた)意識的な(意識的に自動的であることを求める)、というか禁欲的な、レディメイドとはまったく異なる感触がある。熱というものが(少なくともその作品の表面には)ほとんど感じられない。ケータイ小説のことはまったく知らないし興味もないけど、ラノベ的な、外傷のインフレーションとはもっとも遠いところにあるような作品に思える。自分に対しても世界に対しても、すごくスカスカな薄い関心しか持たず、そのなかで充分に自足しているような感じ。
森高千里の男性ファンの存在は、彼女が美人であることによって簡単に納得できるし、その熱のなさ、冷淡さ、とりつくろったような、取りつく島もない紋切り型的な表層性が、その魅力の多くを占めていることも感覚的に理解できる。男性がそのような(人形的、フュギュア的な)ものに惹かれるという感情はきわめてありふれている。森高千里という存在が、その特異性のなさによって特異的なのは、そのような身振りが、男性的な視線に対する誘惑の身振りとして形成されたものとはあきらかに異なる表情を帯びているという点にある。初期のへんなミニスカート姿の頃はともかく(ぼくはそれにはほとんど興味がない)、「渡良瀬橋」や「私がオバさんになっても」、「気分爽快」等の歌詞や歌唱から誘惑の身振りをみてとるのは困難だろう。その、ずうずうしいまでのベタな普通さ、徹底した内実のなさにこそ内実があるかのような感触。だが、それらの作品を、たんに退屈な、つまらない作品と言ってすますことが出来ないのは、その作品(曲だけではなく、彼女の存在感やパフォーマンスも含めたものとして)を、そこに自分のリアルななにかが実現されている対象だと感じる女性ファンがそれなりの数、存在しているらしい(現在、現役とはいえないので、存在していた、か)という事実だろう(森高千里的主体という実質があるらしい)。男性の性的な視線に向けて造形された森高千里的イメージが、いつの間にか、ある種の女性的主体が自らを投影する対象として受け入れられ、変質していったという事実から浮かび上がる、森高千里的主体という主体の様態がぼくには不可解なのだ。松田聖子的な、ロココ的過剰装飾的主体とか、当時のアムラーなみたいなヤンキー的主体とかなら、まだ分かる気がするのだが。それはいったいどんなかたちをしたものなのか。
彼女の整った顔立ちは、整っていることで際立つのではなく、目立つ印がないことで、逆に個性を消し、かぎりなく透明(匿名)にちかづき、背景-制度的自然(保守性)のなかへと(ずうずうしく)とけ込んでしまうような効果をもつようにも思われる。紋切り型で、フラットで、熱も余剰もなく、背景にとけ込み、型にすっぽりはまっている、(アイロニー抜きでベタに)その感触こそが「この私」だ、という風に形成された「(女性的な)主体」の手触りが、たしかにあるようなのだが、ぼくにはそれが上手く理解できない。上手く理解できないとわざわざ書くということは、そのような主体のありようの不可解さに反発を感じつつも惹かれているということなのだろうか。いや、惹かれているというより、恐れているという方が正確なのだと思う。(ここで書いているのは森高千里のことというよりも、森高好きの女性の「主体」の組成---への恐怖---についてなのだが、「森高千里好きの女性」の知り合いはぼくには一人もいないので、これらのこと全てが、たんにぼくの妄想にすぎないのかもしれないのだが。全体として90年代の古い話でもあるし。というか、ここまで書いてきて、たんに、堂々とコンサバであることの恐ろしさってだけの話なのかもしれないと思えてきた。)