●『マジでオタクなイングリッシュ!りぼんちゃん 英語で戦う魔法少女』というアニメを12話通してネットで観てしまった。一話五分のショートアニメだからそんなに時間は取られないが。オタク的な慣用表現やネットスラングなどを英語に翻訳するとどうなるのか、という、それだけのネタのアニメなのだけど、公式サイトには以下のようなストーリー紹介が載っている。
≪英語が苦手な女子高生りぼんちゃんは、使い魔を自称する奇妙な猫トナーと契約して魔法少女になった。目指すは、歌って踊れて東京ドームを満員に出来るスーパーヒロイン。
彼女と同じく使い魔の鮫ジェットと契約したベルや、使い魔のモグラ・タンクと契約したガーネットを仲間にして、厨二病にかかって世界征服を目指す自称最強の魔女バル子ちゃんと戦いながら、今日もりぼんちゃんは世界と町の平和を守る!
……なーんて話になるはずが、予算が少なかったり、スタッフが離脱したりで、世界の平和を守ることより番組を守ることに精一杯な日々。
このアニメとりぼんちゃんたちは、この先生き残ることが出来るのか?≫
これはストーリーというより「設定」の説明で、こういうマニアックで内輪な設定のキャラたちが出てきて、海外のオタクイベント出演とか作画崩壊とか聖地巡礼とか、オタク的であくまでな内輪なネタが繰り広げられる。
で、思ったのだけと、この「オタク(オタク用語)」を「大阪(大阪弁)」に換えて、「魔法少女」を「妹」に換えると、同じくショートアニメの『僕の妹は「大阪おかん」』になる。どちらも、「オタク/大阪」を軽くバカにするような視線が基本にありつつも、その対象が魅力的な美少女キャラ(魔法少女/妹)であることによって、「貶めること」と「仰ぎ見ること(憧れ)」とが上手いバランスで釣り合うようになっている点も似ている。ユーモアとはおそらくこのバランス感覚であり、貶めるだけではたんに不快で下品だし、仰ぎ見るだけでは「洒落」にならない。
ただその対象がオタクの場合は自虐−自己愛(内向き視線)で、大阪の場合は他虐−他者への欲望(外向き視線)であるという違いはあるけど。『僕の妹は「大阪おかん」』には(あるあるネタ的なリアリズムではなく)、他者(外)に対する排除(ヘイト)の感情と魅惑される感情が混じり合って同時にはたらくオリエンタリズムが発動しており(この作品はあきらかに関東目線でつくられている)、ここにあるのは架空の――紋切り型としての――「大阪」であり、妹が小悪魔キャラなのは、彼女があり得ない場所からやってきた「異邦の女」であるからだろう。対して魔法少女がゆるふわ系の天然キャラであるというところに、視線の外向き性と内向き性との違いが出ているように思う。
自分を貶めることとそれに伴う自己愛の形象化と、他人に魅惑されつつ、それを貶めてしまいたくなるという――ある種の恐怖の――感情の形象化の違い。ここで前者にはおそらく、自虐が自己愛と自己嫌悪との癒着と循環に陥らないための、距離をとり、バランスをとる装置として「英語への翻訳」が効いている。
●ここにあるのが、オタクの内的記述(自己言及による自己異化)と大阪の外的記述(オリエンタリズム)だとする。オタクの内的記述を洒落にするのは英語への翻訳であり、大阪へのオリエンタリズムを誘発するのは大阪弁の異質な響きやリズム、大阪の人の行動様式へ違和感であり、それを緩衝する妹キャラであるとする。内的なものを半ば外化(翻訳)して笑い、外的なものを半ば内化(虚構化、紋切り型化)して笑う。「英語」と「異邦の女」は、それを媒介するメディウムとなる。一方は内側に留まりつつそこに隙間を開いて外への通路をつくり(笑い)、もう一方は外にあるものを距離を維持しつつも半ば受け入れる(笑う)通路となる。笑いは切断(排除)であると同時に接続(受け入れ)であり、切断することによって接続し、接続することで切断する。あるいは、わざわざ波風を立てることでショックを吸収する。
内輪の論理とその外という思考の形、あるいは、その記述は正確ではないというオリエンタリズムへの批判は、メディウムのもつ、切断し、接合する機能を見落とすことになる。
●このようなメディウムを一つ一つ別々に考えるのならば、内側と外側という描像は逃れられなくなる。しかしメディウムは常に複数あり、境界も複数重ねあわされている。オタク(内)/非オタク(外)、東(内)/西(外)という二つの「内と外」だけを考えてみても、同時に作動するとすれば、オタク+東(内+内)、オタク+西(内+外)、非オタク+東(外+内)、非オタク+西(外+外)という、境界(内と外)に対する個(視点)の、四つの異なるあり様があり得ることになる。そしてこの四つのあり様のそれぞれに、二つの異なるメディウムが作用するとする。あるいは、また別のメディウムも生まれるかもしれない。これが三つ、四つと重なってくれば、それだけで、「ある個(視点)」の立ち位置は「内と外」という概念ではとらえられなくなってくる(とはいえ、それぞれ要素では依然として内/外は作動しているのだろうが)。
●『ぼくの妹は…』について、「この作品はあきらかに関東目線でつくられている」と書いたけど、もしかするとそうではなく、実は、「架空の大阪人イメージをでっちあげる東京」という、大阪からみた東京の紋切り型が造形されていると言えるのかもしれない(大阪から来た妹役の声優は関西の人ではなく、逆に、東京に住む兄役の声優が関西出身の人であるしい)。そうなると、紋切り型と紋切り型とが互いに入れ子になり、相互作用していることになる。そもそも、妹萌えという紋切り型と、大阪おかんという紋切り型とが接合されているのだし。