●昨日も書いたけど、『赤の他人の瓜二つ』(磯崎憲一郎)では、書き出しを読んだ時に予想する方向へは、小説は展開していかない。あの書き出しは何だったの?、という展開で、いわば書き出しは投げっぱなしで放置される(だいたい、書き出しの「私」が誰のことなのかさっぱり分からない)。書き出しだけでなく、この小説には「で、そのココロは…」というような着地点のない、投げっぱなしで他の方向へいってしまうような細部がたくさんある。しかし、これが重要なのだが、それらは決して無責任に投げっぱなしにされているだけではない。確かに、分かり易い解や着地点は与えられずにずれ込んでゆくのだが(つまり、律儀な予定調和的な解-回帰はないのだが)、そのボールが投げられたことさえ忘れてしまった頃に、不意に、予想していたのとはまったく異なる形へと変形されて、まったく違った方向から、投げられたボールはちゃんと回帰してくるのだ。この小説の面白さは、その点(投げられたものが回帰してくる時や形の予測のつかなさと、幾つもの投げかけと回帰との時間差が織りなす複雑な絡み合い)にこそあると思われる。何より、書き出しで投げかけられた問いは、最後の段落によって解が示されている。
書き出しに書かれたことがらは、それによって我々が予想するのとはまったく違った形で、この小説全体によって、きちんと受け止められているのだと思う。その証拠が、この小説のラストなのだ。書き出しからラストへと、問いの形が変形してゆく、そのズレが引き起こす衝撃や振動が、この小説全体の記述としてあらわれている。つまり言い換えれば、書き出しの一段落が、ラストの一段落へと変換されてゆく演算の過程が、この小説の全体なのではないか。
●11日の日記で、「マッチョな人」という風な、特定の誰かを想定しているかのような書き方をしたのはまずかったかもしれない。それは別に、特定の誰かを指すのではなく、誰にでもある(当然、ぼく自身にもある)傾向であり、どのような場でも作動し得る力のことなのだ(勿論、「マッチョな人」としか言いようのない、その力へと固着した「誰か」は存在するけど)。
ぼくは、諸悪の根源である特定の「誰か」を指定して、その誰かをやっつけさえすれば、世界が少しでもマシになるというような考え方は、まったく失効していて意味をもたないと思っている。ケンカとは、要するに幼稚なヒロイズムの自己満足以上のものではまったくない。たとえその批判が全面的に正しいとしても、そのような形でなされる批判において実現されるのは、批判を口にしている人やそれに同意する人が「気持ちよくなる(盛り上がる)」という以上のことではないと思う。
それは、批判に意味がないということではなく、ある、批判されるべき事柄や傾向を、特定の誰かに代表させて、それを叩くというやり方に意味を見いだせない、ということだ。
勿論、ぼくにも好き嫌いはあり、嫌いな奴の悪口を言ってすっきりしたいという欲望もあり、その欲望を自ら全面的に抑圧しようとは思わない。たまには、吐き捨てるように、この糞が!、とか言って気持ちよくなりたい。でもそこに、ぼく自身がすっきりするという以上の意味があるとも思っていない。