●例えば、モンドリアンの、初めは写実的に描かれていた樹が、だんだん抽象的な形態になってゆくという、有名な一連の作品がある。あるいは、ピカソのドローイングで、写実的に描かれていた牛が徐々に抽象化されてゆく連作がある。人は、こういうものを見ると、何かを理解したような気分になる。でもそれは、理解するということが陥りがちな罠なのだと思う。
ある、空間的あるいは時間的な連続性のなかで、複数のものたちの間に何かしらの因果関係があることを示すこと、つまり、物語としての展開のなかで根拠(らしきもの)を与えてやると、人はそれをなんとなく分かったという気持ちになる。でもそれは、ある空間的、時間的な座標(仮定された連続性)のなかに個々の作品を配置したというだけだ。西洋美術史の流れを通観したからといって、個々の絵が分かるようになるわけではない。あるいは、美術史を書き換えたからといって、個々の作品の見え方がかわるわけではない。たんに位置づけが理解されたり、変化したりするだけだ。
絵が分かるということは、全然そんなことではない。このことは、十日のトークで話してくれた(ぼく以外の)六人も、誰一人として、決して絵画をそのような観点から語ることがなかったということからも、確信できた。カッツのなかに小野竹喬を見出すにしても、ポルケのなかにクレーを見出すにしても、そこで把握されているのは、個々の作品のなかで起こっている出来事や、その生成の時に働いている力(様々な力の混合具合)の同質性や関連性なのであって、物語的な因果関係でも、座標上の位置づけでも(勿論、マニアックな固有名の乱舞でも)なかった。そこにあるのは、例えば、セザンヌがくしゃくしゃっと描いた色斑と線の絡み合いから、「植物」としか言えない何かがたちあがってくることへの驚きと同質の、その都度の(観る度の)「驚き」として把握される(繰り返し把握され直す)しかないような何かだ。絵画を理解するということは、そのような驚きを発見し、繰り返し経験し、あくまでその驚きと共にあり、その驚きに対して忠実である、ということ以外のことではない。解析され分析、文節されるべきなのは、その驚きの内実であって、外側から与えられる腑分けや説明ではない(制作とは、自分自身の身体を用いて行われる、そのような「驚き」の解析、分析でもあろう)。
確かに、位置づけ的、物語的な説明は、ある程度論理的な思考が可能な人になら誰でも理解でき、共有できるが、「驚き」は、それが分かる人、というか、それに「驚く」ことのできる人にしか通じない。何度も同じようなことを言うけど、だからといって、そのような「驚き」が閉じているなんて言う人のことをぼくはまったく理解できない。それは、誰にも出来ないようなすごいことが出来る人に対して、それに驚き、賞賛するのではなく、そんなことが出来るなんて常識として考えられないから(あるいは、その根拠をきちんと説明できないのならば)、それはインチキだ、と言って貶める(それこそが「平等(等しく開かれること)」なのだとでもいうかのように)のと同じことなのではないか。