●シャブロル『引き裂かれた女』をDVDで。冒頭から、フランソア・ベルレアンが上目使いで目つきが悪い。この人はこの映画ちゅうずっと上目使いの人だ。
個々の登場人物たちの思惑を(そして観客の予想や期待を)置いてきぼりにするかのように、話の軸がどんどん横滑り的にずれてゆく。最初は、小説家夫婦と女性編集者との三角関係のサスペンスなのかと思っていると、すぐに、小説家と金持ちのバカ息子との間での、地方のケーブルテレビ局でお天気キャスターをやっている女性を取り合う話になって、しかしその決着はあっさりついて、父親のような年齢の(いかにも好色な)小説家に娘くらいの年齢の女性がのめり込んで、翻弄される話となり、だが小説家は女性にすぐに飽きて女性から逃げ出し、傷心の女性と金持ちのバカ息子の関係の話になり、二人が結婚すると庶民の女性とブルジョア家庭との確執の話になって……、と話の軸が移動しつづけ、最後まで観ると、結果として、まるで溝口の映画みたいな、権力に翻弄されつつもたくましく生きる女性の映画という印象になる。
観る側の姿勢を安定させることを拒否するかのように軸が移りつづけるこの映画はつまり、インテリ達のサークル(小説家夫婦、編集者、秘密クラブに集う社会的な成功者たち)、ブルジョアたちのサークル(バカ息子の家族、彼の母親の慈善事業の関係者など)、庶民のサークル(お天気キャスターの女性、その同僚、小さな書店をやっている女性のシングルマザー、女性の伯父など)という、通常であれば交わりの無い三つのグループが、小説家の新作のプロモーションをきっかけに、キャスターの女性の美しさを媒介にして接点が生まれ、その時に、その三つのサークルの内部やその「間」でどのような波紋が起こるのかということが描かれているように思う。軸がずれるように見えるのは、例えば、その時インテリサークル内で何が起こるか、インテリ-庶民間で何が起こるか、庶民サークル内で何が起こるか、庶民-ブルジョア間で何が起こるか、ブルジョアサークル内で何が起こるか…、という風に関係-局面が移行してゆくからなのだと思う。だからそれは一本の軸のなかでは展開されず、諸関係の関係として展開し、そのいくつかの断片が示される。そして「殺人」という事件はその相互関連のなかで生じる。
この映画を単調に観るならば、腐ったインテリサークルと腐ったブルジョアサークルは、結局自分たちの閉じたサークルを維持することだけにしか興味がなく、庶民のサークルはそれぞれの権力の自動運動に巻き込まれ、翻弄されるしかない、という風にみえるかもしれない。しかしこの映画では、どこか特定のサークルや特定の人物に対する「事前」の思い入れや肩入れはまったくなくて、それらは全て同等に突き放された視点でゲームの駒のように扱われている。そして、それらの関係の幾何学的ともいえる進展(の諸断面)のなかで、最後に、あくまで「結果」として、お天気キャスターであった女性の像が際立つことになる。小説家も、バカ息子も、その母親も、(結果として死んでしまったとしても)自分自身を反復させる自動運動から決して逃れることは出来ず、ただお天気キャスターの女性だけが自分をかえることが出来た、という風に。
●この映画では、三つのサークルの関係の内部に属さない人物が一人だけいて、それが小説家の妻だ。この女性のこの映画のなかでの位置づけは謎で、「二階で獣のように仕事をしている」と言われるその「仕事」が何なのかもよく分からないし、小説家とこの妻の関係もよく分からない。シャブロルの映画にはこういう謎の女性が出てくる。