●渋谷ユーロスペースで『刑事ベラミー』(クロード・シャブロル)。偽日記を読んでいるという未知の方から、『刑事ベラミー』がすごいからぜひ観てくださいと言われ、チケットまでいただいた。ぼくはシャブロルはわりと苦手という認識があるのだが、人に勧められたものは出来る限り一度は試してみたいと思うので(用事は昼過ぎには終わったし)観に行った。
作品というものの複雑さということを最近感じていて、例えば作品のある突出した細部を指摘して、それをもとにして、それとの関係によって作品全体のあり様を読み解いてゆくというのは、批評というか、作品分析の一つの常道としてあると思うのだけど、ぼくが最近面白いと思う作品はどれもすごく複雑で、だからこそある細部が突出することがなく、全体としては、おだやかに、あるいは滑らかに、あるいはゆるーく、流れてゆくように感じられる。様々な要素、様々な細部が、互いに緊密に、かつ錯綜して絡み合っていて、そしてそのどれもが、その作品においては(他ではありえない)そうでなければならないという形で絡み合っている。その複雑さのあり様そのものがその作品の特異性となっている。そのような作品でも、ある細部に、あるいはある主題、ある側面に注目して、それによって、それとの関係で作品を分析することは可能だし、それはそれで間違ってはいないと思うけど、それはその作品を、ある恣意的な切り口によって断面を見せているということで、でも重要なのはそれではなく、その複雑さの「あり様」(のまるごと)をどうとらえることが出来るのか、ということなのではないか。
『刑事ベラミー』では、最初に示される黒焦げの死体の首がもげていて、それによってこの映画が首、あるいは顔を巡る映画なのではないかと予想される。実際、類似した二つの顔や整形という主題が出てくるし、それは分身へと転じ、兄弟という分身の主題へ連なり、それはペアという形で男女(夫婦)という主題も招きよせられる。さらに、「顔の類似」によるペアと「兄弟」というペアの、二つのペアの関係の相似性があらわれ(2つのペアの相似性が世界の「裏」とも言える様相を露呈させ)、冒頭の一つの死体が二重化されることで幕を閉じる。このような主題系からみればこの映画のキモは、顔の類似によるペアの「関係」に導かれることで、兄弟というペアの裏側に隠されたものがあらわになるという点と、それによって一つの死体が二重化するという点にあろう。休暇中の警視である主人公に対し、公務中の(映画のなかでは不在の)もう一人の評判の悪い警視の存在が、この「裏」側を暗示もしている。表層で様々な「2」の関係が複雑に反響し合いつつ、そのなかの「2つの2」の共鳴が、表層には不在の別の構造を暴き出す、と。ざっくりとした粗いものではあるが、この映画の主題と構造は以上のように分析できる。
でも、じゃあ、この映画はそのような映画なのかというと、それは違うんじゃないかと感じられる。まず、異様に太っていて、セリフの間も息がぜいぜい言っているジュラール・ドパルデューと、見るからにインチキ臭そうで薄っぺらなジャック・ガンブランが出てくる時点で既にあらわれるおかしな雰囲気がある。というか、最初のカットのパンニングからして、小さな動きのパンがいつの間にか大きな動きへと変化していて、もう一度ちゃんと見なければどうなっているのかよく分からない。これらのことは上記の主題系には含まれない。
何故、他の俳優ではなくこの二人なのか、あるいは、何故そんなに変な、アクロバティックなパンニングが必要なのか(あるいは、この長いカットの後に矢継ぎ早に挿入される短い風景カットの積み重ねは何なのか)。ここで重要なのは、太ったドパルデューの身体が奇形的なものとして強調されているわけではなく、冒頭のパンニングも、作家の「しるし」となる程のスタイルの独自性にまでは至っていないという点だ。つまりそれは突出する細部ではなく、作品の一部として機能する細部の感触なのだ。例えば、ドパルデューの太った身体は、弟とのそれなりに深刻な軋轢の描写において、深い心理的苦悩のような表情よりも、自分自身が存在していることの厄介さ(重たさ)や滑稽さの方を際立たせているように感じられる。あるいはまた、ドパルデューのこの身体は、あまりにも「完璧な妻」すぎて絵空事めいたマリー・ピュネルとの夫婦関係に、ある種の楽天的な感触を付け加え、それによって説得力をもたせているようにも感じられた。
これらの細部は、作品の彩りや厚みではなく、作品の構築のものにかかわっているように思われる。つまり、骨組みがあって、装飾的細部があるのではなく、すべてが骨組みであり、同時にすべてが細部であるというようにして、様々な細部の力の相互作用によって作品が構築されているという感じ。