●例えば、aという部品とbという部品とcという部品が組み合わされてAという装置がつくられていたとする。そしてもう一つ、dという部品とeという部品とfという部品とで出来ているDという装置があったとする。AとDとでは、形態も機能も意味もまったく似ていないし、a.b.c.d.e.fそれぞれの部品についてもそれは同様で、その次元ではどのような関係も見出せないとする。だが、Aという装置をつくっている(a.b.c)という関係と、Dという装置をつくっている(d.e.f)という関係に同質性がみられるとする。この時、関係(a.b.c)と関係(d.e.f)の同質性によって、装置Aと装置Dとは関係する(類似している)。これは形態的・機能的・意味的な類似とはまったく違う類似の仕方だと言える。
昨日観た『刑事ベラミー』では、ジャック・ガンブラン一人二役であらわされる元保険会社社員とホームレスとは、明らかな形態的類似によって関係づけられるペアである。そもそも形態的類似以外にこの二人を結びつける根拠はない。一方、ジュラール・ドパルデューとクロヴィス・コルニアックによってあらわされる異父兄弟の関係は、物語的、意味的な要素によって関係づけられるペアだろう。だから観客は、そもそもこの二つのペアの間に関係があるとは思っていない。それよりむしろ、ドパルデュー夫妻とガンブラン夫妻(+愛人)という二つのペアの対比にこそ主眼があるのかと思っている(意味的・機能的類似)。しかし、ラストで一つの死体が二重化される(ホームレス・弟)時、実は、保険社員-ホームレスの関係と兄-弟の関係こそが共鳴していたのだと理解される。保険社員はホームレスを積極的に殺したのではないにしろ、死にたがっていたホームレスにその手段を与えて背中を押したという意味では彼を殺した(かもしれない)。そして、ドパルデューとその弟の死との関係もそれと同様だ。この関係の同質性が、ドパルデューの弟への「殺意」さえ明らかにする。物語の次元では必ずしも説得力をもつとは言えない、ドパルデューがガンブランに入れ込む理由は、この潜在的な次元にあった関係の類似に、ドパルデューが無意識の次元で気づいていたからと言えるだろう。
つまりこの映画では、形態的類似、意味的・物語的類似、関係による類似という、異なる次元の類似が錯綜し、密接に関係しあっている。そして、最後の、関係による類似というのは、抽象的な次元にしか存在しない(見えるもの、聞こえるものを丁寧に拾うだけでは見えてこない)。関係1と関係2とが類似していることで、「関係と関係の間」の関係が生じる。関係と関係との関係は潜在的なもので目に見えないが、それが一つの死体の二重化によって表面にあらわれる時、今まで目に見えていた様々な類似の体系の布置が崩壊し、劇的に変化する。そしてこの潜在的関係-類似の露呈は、潜在的な次元での関係が「他にもあるかもしれない」という感触を生む。つまり、実は物語の完結(意味の布置の変化)は仮のものでしかなく、すべてが明らかになった(意味の布置が完結した)ということなどありえない、ということになる(例えば、マリー・ピュネルとクロヴィス・コルにアックの関係は?)。