●読書ノート。ベルトラン・プレヴォー「コスミック・コスメティック」(「現代思想」2015年1月号)。
ジンメル(「身体」と「装い」が不一致であればあるほど優美に見える)から、ボルトマン(動物の「模様」の有機的でも無機的でもない非有機性)へつなぐことで、人間の装いと動物の装いの連続性を導き出すところなど、おおーっ、と思った。
(ここで言われる「装い」は、ハーマン「代替因果について」における「魅力(魅惑)」や「暗示」に対応しているように感じられる。)
ただ、最後の最後でドゥルーズ=ガタリをスローガンのように引用して終わるのは、ちょっとどうかと思った。
(表出的なもの≒まなざしに作用するもの、が、知覚しえぬもの≒まなざしなき美≒世界への融即へと飛躍するには、その間にもう少し丁寧なロジックが必要な気がする。)


ギリシア語《コスモス(←→カオス)》の意味
1.世界(世界の秩序)
2.装い(身体装飾)
◎「2」について
武具、死装束、(装いとしての)女性の慎み深さ、などの意味もある
→世界を適切に補完する(調和よくさせる)人工物(付加物)
→(外側から)適合し、結合する価値、美しい「配置」


身体装飾の秩序


○身体装飾=世俗(=秩序の問題)
コスミック・コスメティック(「天球からネックレスの真珠まで」「天体の軌道から整えた髪筋まで」)
ジャック・ユリスー
「装飾が秩序を打ち立てる役割をもつのは、装飾によって秩序があらわれるからだ(→結晶化現象に例えられる)」


キリスト教における「装飾的なもの」
→「創造原理」の観念から分離できない---世界=世俗的であるとともに神的であり、有限であると同時に無限である(相反・矛盾)


○対立しあう領域間の比例関係を抽象する
〈ムージカ〉
→韻律・数・リズム、を整える、普遍的調和(抽象的な「コード変換装置」として機能しうるもの)
(19世紀中頃)ゴットフリート・ゼンバー『芸術物理学』
同一の自然原理が
→「最大の作用にも、最小の作用にも」「自然にも、人為にも」適合するべき
→人が事物を「飾る」とき、その対象のうちにすでにあらわれている「自然適法性」を強調しているだけ


◎ゼンパーによる身体装飾の三つの物理的原理
1.つり下げ装飾---鼻飾り、耳飾り、整えた髭、折り目のついたドレーパリー(それ自体が対称的である・対称性への感覚)
2.環状装飾---冠、ティアラ、ヘアバンド、指輪、ベルト、腕章、ブレスレット、へム(中心を取り囲む・放射状の配置・空間を構成する諸関係の中心・核心)
3.指向的装飾---戦士の鉄兜、風になびく髪、ゆったりした衣装、リボン、留め金やブローチ(身体の方向性と運動を引き立たせる)


「つり下げ」「環状」「指向」の三つは、物理的方向付け、と、自然の次元をも示している
◎「つり下げ装飾の対称性」---垂直の次元、高さの軸に照応し、「高さの軸」は、「重力=物理的なもの」と「成長=有機的なもの」という二つの極に向かって延びる→「植物をモデルとする」
◎「環状装飾の空間・配置性」---幅のすべての次元を現実化する=「比例性」→「結晶界を(結晶の放射状で閉じた形)をモデルとする」
◎「指向性装飾の方向性」---長さと奥行きの次元を決定する---「無気力と意志」のあいだで、無気力は重力へ、意志は「生の力」「自由な力」へと延びてゆく


コスミックな統一から自然の法則へ


そのような「物理学」は時代遅れ?
◎組織化されたコスモスの自然的統一に結びつけられた「装飾」の観念
ギリシア


しかし…
『装飾芸術論』(ゴンブリッチ)の「近代性」
→近代性はなにに由来?---「コスモス」から「自然」へ
○依然、コスモスとカオス、秩序と無秩序の対立は維持されている
→とはいえ、(一般的な物理配置としてではなく)諸々の規則と原理の純粋な「適法性」として(認識論的?)
→コスモスの「全体性」は、「諸規則の適用の統一性(主観)」によって把握されるのみ(自然法則の秩序=適用性)→カント
◎「秩序」から統一、一貫性を差し引くとのこるのは「規則性」のみ
ゴンブリッチが「装飾」を自然秩序に組み込むために注目するのは「幾何学性(単純、かつ規則正しい形)」
(チェック、格子、螺旋、対称しか、装飾と認めたがっていないかのような…)→マルギナリア、グロテスク、ロココの渦巻き…は含まれない


しかし、
「規則性」それ自体→幾何学的、規則的、は、延長する形態なしにも成立する
→カテゴリー表のような形式(だが、それ自体は装飾的ではない)
◎シャルル・ブラン『装いと衣服における芸術』
五つの根本原理「反復」「交互」「対称」「前進」「混合」
→自然にとってさして重要ではない、諸項目の間の〈論理的な関係〉に起因する
→この「原理の論理的本姓」こそが、普遍的な「適法性」を与える
(物質的、有機的、象徴的、人間的、動物的、微視的、巨視的、あらゆる層のなかに見出される)
→「装飾的なもの」は、普遍的秩序に関する〈マテーシス〉のパラダイムを与える


アナロジスムに対する批判


ゼンパー、ブラン、ゴンブリッチ、いずれも「装い」と「世界」の関係が、アナロジックな方法で考察される
(この原理はさまざまな地域でうまく働いている)


→しかし
「アナロジー」(=比例の類似)
→AがBであるように、CはDである(現実的なものではなく、一つの表象)
◎コスメティックなものがコスミックである(→「精神の眼」を通じてはじめて言える)
二つの項の間の照応→第三の項(媒介物としての精神)が必要
媒介物=精神の眼による「多大な代償」がある
→(「世界の秩序」と「装い」を結びつけるために)単純化し、規則的、幾何学的に形に還元しなければならなくなる
→「還元」してしまえば、あらゆる装いは「おおよそ似ている」ことになってしまう(三つか四つのカタログに分別される)
◇「装飾一般の特異性」も、「個別の装飾の特異性」も、消えてしまう


◎コスメティックなものに規則性がないわけではないが、規則性によって「コスメティックなものの次元」が示されるというわけでもない
→「《実在的なもの》たる装いの世界=世俗性」を考える
(アナロジーの媒介を経ずに)「至高の連続性のなかにある世界」と「身体装飾」の関係を理解するため
ゴンブリッチ---コスミックな世界を浄化し、そこから秩序(装飾的なもの/自然的なもの)を取り出す
→○逆に---秩序の観念を浄化し、そこからコスミックな統一性を取り出す
◆そのような「統一性」は、「コスモス」というより「カオスモーズ」として考えるべき


投影の苦しみ


○マルセル・モース「民族学誌の手引き」
「身体への直接的装飾」(コスメティック)と「身体への間接的装飾」(装い)との区別
◎身体への直接的装飾(コスメティック)---直接身体を造形の対象とする(髪型、身体瘢痕、頭蓋変形、入れ墨、脱毛、鼻ピアス)
◎身体への間接的装飾(装い)---身体に装飾を付加すること(衣服、仮面、宝飾品、被り物)
→(前者の)髪を整え、眉を抜き、身体変形する時、身体に「何が付け加えられている」のか→物質的には何も付加されない
→「意味のある印」、「象徴的な対象」が付加される、と通常は解釈される、が…
→その場合、後者(装い)は「第二の皮膚」「社会的ないし主観的書き込み」として機能することになる
→◆これをコスメティックの「投射的モデル」と呼ぶ
「内的な身体(支持体)」は、「外的な身体」の投射に役立つ(おうおうにして、投射→同化へ)
→逆に言えば、「装い」の外在性は、身体によって内在化される
(「身体の悲劇的拡張」アビ・ヴァールブルク)
◎動物はなにも投射しない→動物に「装い」を認めない(動物は習慣をもつだけで、衣服はもたない)
→(ギリシアキリスト教の全伝統においては)
人の投射が「衣服」のなかに見出される(「衣服=被覆」のなかに本来的な行為がある)→「第二の文化的な身体(服、装い、オブジェ)は、「第一の自然の身体」に適用される


◆ジャック・スリユー→「投射モデル」批判のためのいくつかの道標を与える
ゴットフリート・ゼンパー
→建築を筆頭としたあらゆる芸術の起源→「織物」とする
衣服は「それ固有の価値」をもつ造形要素(「装い」であり「被覆」ではない)→装飾は「構造的なもの」である
(「装い」の「建築」に対する先行性→建築全体こそが「装い」として考えられなければならない→装いは建築と「一体」)
◎「装い」は皮膚と一体化する、「衣服」は第二の装いでしかない
○それに対して→「衣服を取り替えることができる」
○そして→(衣服は)「身体一般」のための抽象的用途を示す
「かたちと用途の一致」と「その一致の断絶」の弁証法


→「一体をなす」とは?、装飾の建築的秩序とは?
○ある時は、「装い」の方が「有機的な輪郭」に合わせる
○ある時には、「身体」の方が「装い」の窮屈な形に適応しなければならない(コルセットなど…)
→このような「衝突」は、「装い」が「(生身の身体とは別に)前もって身体化」されているから
◇「装い」=それ自身がすでに、諸部分に分割可能な「拡張的身体」
→「諸部分」は、一つの「全体」へとまとめ上げることもできる。
「身体」と「装身具」の結びつき=他の部分に隣接する諸部分として
(「身体-装身具」関係=隣接)


非人称的、無身体的、非有機


ゲオルク・ジンメル
→優雅さ---「身体」と「装い」の〈不一致〉に起因
(「装い」が「身体」に、張り付いていなければ、いないほど、優美になる)
「身体一般」のための「抽象的な用途(スリユー)=非人称の特徴」の媒介
→によって、装いは強度を増す


○身体に密接に結びつく装い→入れ墨
○その対極→宝飾品(誰でも身につけることができる)
○ふたつの中間→衣服(入れ墨ほど交換不可能ではないが、「装い」よりは個人と結びついている)
→「宝石」が、それ自体で独立し、特定の個人を示さず、堅さゆえ改変もできないとしても、それは「ある一つの個性」に貢献させられている
→「優美さ」は、極端な個人化を避ける
→「優美さ」は、「個人」の周りに、一般性や様式化という、「抽象化の余地」を生み出す
◆「装い」による脱身体化
→「装い」と、美しく飾られる「身体」とは、形態的になぞったり模倣したりするような関係をもたない
→飾ろうとするものとの「類似を失う」ほど、優美さを増す
ストア派「非物体的なもの」---純粋な効果であり、物体のように能動的/受動的ではない→「装い」は、身体のようには存在しない

◎「装い」→身体の表面に「自立的」かつ「外在的」に存続する
→実詞(身体・事物)でも形容詞(質)でもなく、不定法の動詞
→身体をヴァーチャル化する抽象的なモチーフ
《人間の衣服は、身体とその外部ではなく、解剖学的な身体と純粋にヴァーチャルな人工身体とを、「人間の内部」で分割するものだ》


○エマヌエーレ・コッチャ
コスメティックは、「世界の特徴=線(色とりどりのパウダー、宝石、金属、美しく裁断された布切れ…)」と「自分たち」を混ぜ合わせる
→しかし、「世界の特徴=線」は、「わたしたち」といかなる関係ももたない(存在としても、発生としても、形態としても、物質としても)
→ゆえの、この連続性の由来は(物質の問題ではなく)「特徴=線」の連続性である
○「装い」に「コスミック」な座標を与えるもの→身体をいくつつかの線やモチーフ、色彩に還元する(身体を抽象化する)特殊なやり方
→世界とわたしの連続性=抽象的な線(→脱人称化・抽象化)


《抽象的なパズルの一片になり、他のパズルの断片と結び合い……岩や砂や植物の線とともに世界の様相を呈し、知覚しえぬものと化す》(ドゥルーズ)
○派手・突飛で目立つ「装身具」だとしても、それは「知覚しえぬものへの生成変化」との相関物


「装いの効果」---「有機的」でもなく「無機的」でもない(その間隙)→「非有機的なもの」
◎かつら
→完全に無機的なものではない(髪の毛のよってできており、私の身体に貼り付いている)
→完全に有機的なものではない(わたしの髪の毛でできているわけではない、頭蓋骨の輪郭に沿っていない)
ボッティチェリ「春」の三美神の現実離れした髪型など
→現実離れした「可塑性」→構築物への変容(建築的?)


動物のコスメティック


○人間よりも動物の方が「非有機性」に長けている
(ゼブラ模様、縞模様、眼状斑、斑点、帯、鮮やかな色彩、虹彩、など)
→擬人化ではなく、それを「装い」の述語において論じること
有機的身体とは混同しえない、独立したモチーフとして


◎アドルフ・ボルトマン
→形と色とを「真正な外観(表出性)」へと変容させるもの、を対象にする動物学者
ジャガーの眼状斑、インコの多彩に変化する色彩
→完全に無機的なものではない---(化学的に)ジャガーやインコの形成を絶えずつかさどる形態生成の過程である
→完全に有機的なものではない---解剖学的構造、有機的部位の形成において必然的ではないし、種の保存からみてもあまり機能的ではない(むしろ邪魔になることも多い)
○「動物の装い」---「形(表出)の意味」に関する問題であり、その「形成」や「機能」に関する問題ではない
◇「形態論的な規則性」→眼差しに向けられた「表出性」の形と、内蔵などの「非表出性」の形とは区別される
→「内的なもの(身体)」と「外的なもの(装い)」との対立を再切断する
「装いのモチーフ」→発生の内部状況に還元されない(有機的な必然性があるわけではない)、が、外的なものから投射されるのでもない(外的な状況に対する機能ではない)→(モチーフは、内的でも外的でもない)
◎文化的なものに、自然的なものにも還元されない→「表出」は世界とともに生成変化する


◇ならば、いかなる条件において「動物のコスメティックについて語り得るのか(技術的、美的、機能的な特権を動物に与えるのではなく)→「人類学の地平」においてのみ考えられる
(セネガルチンパンジー→防護物をつける、野生のボノボ→雨傘として葉を用いる、レンベウ海峡のカニ→数枚の葉で身を覆う、ヤドカリ→貝類を身につけ、取り替える…)→以上のものを衣服とみなさないのは難しい
○防護、カバー、遮蔽物→人間の「衣服」こそが「投影」のダイナミズムを動物の「衣服」に与える
◎衣服、装いは、二つの意味で「投影」と考えられる
1,人工物の計画的生産
2.人工物の身体表面への適用


◎カムフラージュ→「機能的有用性」よりも「美的効果」
→世界への生成変化へのベクトル(環境に、「美的」かつ「形態論的」に順応している→知覚し得ぬものへ…)
→「個性(個体性)」を失わせる「同一の抽象化」こそが、(人間でも、動物でも)「装い」において作用する→(輪郭をぼかし、壊す)迷彩効果
◇多くの蛇がもつ縞状のモチーフ、群れになるシマウマの個体性を消すゼブラ模様…
○文字通りの「カムフラージュ」「擬態」は存在せず、「装い」は「世界を巻き込む(至高の表現)」である
自然の層(物質/生命/精神)を、横断する「モチーフ」「色彩」「線」の中に折り込む


(襟巻きのボア=オウヘビ、燕尾服=カササギの尾、ゲピエール=スズメバチの巣、羽根飾りのエグレット=シラサギ)
→メタファーではなく、世界の「巻き込み」であり、世界の生成変化へ一直線で向かう


→◆装いとともに、世界が横断的に退行する
→コスミックな「統一」は、〈全体性〉として把握されるのではなく、カオスミックな、装飾線・表出線として試される(「横断的な輪郭の退行」としての統一?)
→「自然」とは、「横断性」それ自体(のみ)を意味する
→「自然」は、人間・鉱物・植物の「融即の平面」のみを描き、「共通の創設の土台」を描かない
《自然に反しての融即、自然に反しての婚礼こそ、あらゆる界を横断する真の〈自然〉である》(ドゥルーズ=ガタリ)