●神保町の東京堂書店に保坂和志と磯崎憲一郎の対談を聞きにゆく。東京堂書店のなかに入ったのははじめてかもしれない。磯崎さんの『往古来今』刊行記念のトーク。実はぼくはこの本の書評を書くことになっているのだけど、その締め切りが昨日(17日)で、既に原稿は提出してあるので、安心して聞きにゆくことが出きた。
作者が、作品について必ずしも全て知っているわけではないのは当然として、しかしそれでも、作者は作品に深く関わっていることは確かなのだから、作者の言葉というのはどうしたって(無意識においても)強く作用してしまう。だから、ある作品について、自分なりの受け止め方がある程度定まるまでは、作者の言葉は遠ざけておいた方がいいという感じがぼくにはある。ましてや、新作の書評などを書く時は(既にいろんな人がそれについて語っている言説が存在するのが当然の古典とは違うので)、他の人がどう書いているのかも遠ざけておきたい。もちろん、まったく何の先入観も思いこみもなく作品に触れるなど不可能なのだけど、それでも、なるべく余計な雑音は避けて一騎打ちするみたいに(あるいは、自分が世界で一番最初にその作品に触れるかのように)作品に触れたい。そういう風に寄る辺ない(後ろ盾のない)状態で作品に触れていないと作品を観る目が鍛えられない。勿論、そのことと、ある作品が他の様々な作品、あるいは世界の様々なあり様との関係(文脈)のなかにあるということは矛盾しない。勉強しなくても「素」でよいということでなく、そういう素手の状態で作品に触れることそのものがエクササイズとなる、はず、ということ。
(とはいえ、まったく不案内な分野や親しみのない作家の場合は、「慣らし」的な予備勉強はした方がよいだろうし、一概には何が良いとは言えないのだけど。要するに、何かに触れる時にそれにもっともよい形で触れるにはどうしたらよいのかを、その都度考えなければいけないということだけど。)
実際には三月にあったトークで磯崎さんとは「見張りの男」や「恩寵」について話してしまっているのだけど、連作を通した話ではなかったので。
●ということで、このトークで磯崎さんや保坂さんがどんな話をしたとしても、もうぼくの原稿は揺らがない(揺らぎようがない)ので、安心して聞きに行けたのだった。お前は作者が何か言ったくらいで作品の評価が揺らぐのか、そんな奴が書評を書く資格などあるのか、とバカにされるかもしれないけど、言葉や知識を仕入れてしまうことの(無意識に与える)影響はバカにならない。自分に与えられる無意識への影響を意識し、警戒しているような緊張状態でトークを聞くというのも、それはそれで貴重な体験だろうとは思うけど、とりあえず今回はそうではなかったということを長々と書いた。
●トークで保坂さんが、磯崎さんの小説には「図」しかないというようなことを言っていて、それに対し、では「地」しかないような小説にはどのような作品があるのかという質問が客席から出て、保坂さんが『季節の記憶』だと言ったのが面白かった。実際、磯崎さんの小説と保坂さんの小説は逆向きになっていると思う。
例えば、大きな無意識の大海のような潜在的なものがあるとして、そこから何かしら形になるものが出てくるとする。その時、潜在的なものからいきなり顕在的な形態があらわれるのではなく、魚(図)を捕るために大きな海のなかに網をひろげるような作業があって、それをひとまず「前顕在的な待機領域」と呼ぶとする。顕在化はしていないけど、それを準備するためのあるひろがりが潜在性のなかから囲い込まれる(フロイト的に言えば前意識みたいな感じ)。「地」というのは潜在性そのものではなく、顕在化を準備する(網を海に下ろすような)「前顕在的な待機領域」のひろがりことだとも言えると思うのだけど、磯崎さんの小説ではそれが異様に狭く小さい感じで、保坂さんの小説ではそれが異様に広く大きい感じがする(それはあくまで待機領域のことであって、潜在性そのものの大きさとはまた違う)。
それは、作家がもっている領域の大きさというよりは、読んでいて意識させられる領域の大きさという感じ。保坂さんの小説を読む時は、いつも大きな待機領域があること意識させられ、その(書かれていないことまで含めた)待機領域全体が小説の感触をつくる感じなのだけど(例えば『季節の記憶』ではそれは主に具体的な空間として現れているけど、それ以降の作品では必ずしも具体的な空間ではない、何か得体のしれない広がりになっていると思う)、磯崎さんの小説は、読んでいる側が待機領域を想定するより早く、全然別のところから変な何かが出てくる感じになる(だから作家としては、読む側が意識できない様々なところに素早く網を張っているのだと思う)。空間が構成されるより早く「動き」が出てくるというのか。だから磯崎さんの小説では、空間や陰影がなくてペタッと平板なのだけど、それが全然単調にならない。