●『不完全性定理とはなにか/ゲーテルとチューリングが考えたこと』(竹内薫)を半分くらい読んだ。カントール自然数の無限(可算無限)と実数の無限では無限の「濃度」が違うということを対角線論法で示したのだが、この対角線論法というものこそが自己言及の問題の根本にあって、それはゲーテルの不完全性定理チューリングマシンの停止問題と同型だということが書いてある(コンピュータがフリーズする度に、われわれはこの問題に直面している)。通俗的には、カントールは無限のことを考えすぎて精神を病んだみたいに言われているけど、この本ではむしろ同時代の数学者たちの無理解(というか「攻撃」)が原因ではないかというニュアンスで(あくまでニュアンスだけど)で書かれている。
この本の本筋とは少しずれるけど、可算無限と実数無限との濃度が違うとして、では、その二つの無限の間に「中間の濃度」の無限はあるのかという問題があって、とりえずそんなものはないだろうというのが連続体仮説というらしい。たしか『ペンローズの<量子脳>理論』で茂木健一郎が、連続体仮説について何も理解していない奴がペンローズの「量子脳」理論を批判するなんてちゃんちゃらおかしいみたいなことを書いていたのを思い出した。おそらく、無限と自己言及(タイプとトークンとの混同?)が絡まってくるこの辺りに、重要かつ底なし沼的にヤバい何かがあるのだろう。
●あるいは、「人間の建設」で岡潔が次のように言っているのも、連続体仮説のことについてだと考えてよいのだろうか。
集合論で、無限にいろいろな強さ、メヒティヒカイトというものを考えているのですね。その一番弱いメヒティヒカイトをアレフニュルというのです。その次にじっさい知られているメヒティヒカイトはコンチィニュイティ、連続体のアレフといわれているものです。このアレフニュルとアレフの中間のメヒティヒカイトの集合が存在するかというのが、長い間の問題だったのです。そこでアメリカのマッハボーイは、こういうことをやったのです。一方でアレフニュルとアレフとの中間のメヒティヒカイトは存在しないと仮定したのです。他方でアレフニュルとアレフとの間のメヒティヒカイトは存在すると仮定したのです。この二つの命題を仮定したわけです。どうしたって、これは矛盾するとしか思えません。それは言葉からくる感情です。ところがその二つの仮定が無矛盾であるということを証明したのです。それは数学基礎論といって、非常に専門的技巧を要するのですが、その仮定を少しずつ変えていったのです。そうしたら一方が他方になってしまった。それは知的には矛盾しない。だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。≫
一方で二つのものの中間が存在するという仮定をたて、他方で中間は存在しないという仮定をたて、その両者が無矛盾であるということが論理的に証明されたとしても、それを「感情」が納得しないと言っている。ただ、岡潔はここで、この感情を≪言葉からくる感情≫と言ってもいる。だとしたら、その「言葉」のあり様が根本から変化したら、この「感情」も変化し、これを受け入れることもあるのではないか。というか、われわれは(というか「ぼく」は)既に、このような事柄にそれほど感情的な抵抗を感じなくなっている。というか、むしろそういうものの方にこそ強くリアリティを感じるようになっているという気がするのだけど。これもまた、論理的な次元でではなく、あくまで感情においてということなのだが。
●そしてここで言う「言葉のあり様」の変化にかかわるのがフィクションなのではないだろうか。