●『戦慄迷宮』(清水崇)をDVDで観た。富士急ハイランドとのタイアップっぽい企画で、3Dで、しかも清水崇のオリジナル脚本でもないということで、アトラクションっぽい映画なのかもしれないと思ったのだが、そうではなく、清水崇的な主題が徹底的に展開されている作品だった。
途中まで(病院にたどり着くまで)の、観客の疑問を一切許さないという強引な展開を観ている時は、高橋洋的なことをやろうとしているのだろうかとも思ったのだが(そして、それはそれでけっこう面白いのだが)、病院に着いてから後は、清水崇的主題のてんこ盛りで、むしろ黒沢清の『花子さん』の清水崇によるバリエーションみたいな感じだった。
本来触れあうことのないはずの、異なる次元(時間)の間に通路が開けること。しかし、その通路によって何かが開かれるというよりも、迷宮的な空間に閉じ込められてしまうこと。その迷宮が、ホラーというジャンルそのものが自己を反復しているような自己言及的な空間であること(遊園地の「お化け屋敷」に閉じ込められる話なのだった)。とはいえ、そのような自己言及のループを駆動させている基底にあるものは、人間関係によって生起する感情であること。
現在の降って湧いたような恐怖(事件)の原因が、結局は抑圧されていた過去の回帰であるというのはホラーの常套だけど、ここでは、その原因(過去)そのものの原因が、結果(現在)と重なってしまっている。つまり、過去が現在の原因であると同時に、現在が過去の原因ともなっているので、いったん現在と過去とが触れあってしまうと、その堂々巡りのループが閉じられてしまって、そこから誰も出られなくなってしまう。清水崇の得意とする、異なる次元を触れあわせる数々の技によって、そのような堂々巡りのループがすごい勢いで回転しつづける。そしてその堂々巡りのループは、ホラーというジャンルの形式そのものを、ホラー映画が反復しているかのような荒廃感を漂わせつつも(結局、恐怖というのは、「怖いぞ、怖いぞ」という雰囲気に過ぎないのではないか)、しかしそれでも、たんなる空虚な自己言及のループに陥らないのは、そこに人間の最もシンプルでナイーブな感情である他者への愛と憎しみ(嫉妬)が、そしてさらに、過去(記憶)そのものに対する畏怖の感情が、基底として存在しているからだろう。
だから逆に言うと、すごく幼稚な感情を保存するために(あるいは回帰させるために)、ものすごく高度な技術と複雑な構造が投入されるのが、ホラーというジャンルなのだと言えるのかもしれない。
十年前に撮られたビデオ映像のなかで、撮られている女の子が撮影している男の子に呼びかけられてカメラの方を見る、そのタイミングと視線とが、十年後にそれを見ている(撮影者であった)男の子がビデオ映像のなかの女の子に向ける呼びかけと同期して、あたかも、現在の男の子の呼びかけに、過去の女の子が反応して、現在と過去の二人の視線が合ったかのように見える場面があって、この場面がむちゃくちゃ「清水崇的」だなあと思った。この一瞬を成立させるために、この映画全体があるかのようで、清水崇は、「この視線」こそを欲しているかのようだ。というか、このような過去との関係(過去への感情)が、ぼくにとってリアルだ、ということかもしれないけど。