●詳細な描写と、視覚的な喚起の強さとは別のものだろう。精密に描写された画像よりも、的確なシルエットの方がなまなましい何かを喚起するように、的確に選ばれた言葉の組み合わせが、人の視覚的記憶に強く作用する。言語によって起動し、言語のなかに混じり込んだ視覚的記憶は、言語という媒介のはたらきによって、視覚的記憶それ自身とは別のモンタージュが可能になる。言葉の介入によってはじめて可能になる、ある視覚的な感触のモンタージュ
さらに、そのような形で喚起された視覚的な記憶(の「組み合わせ」)は、その視覚像そのものというだけではなく、いくつかの視覚像の隙間、そこには含まれていない欠落や空白をきわだたせる。そしてその空白の有り様こそが、そこに生起している感覚には、その記憶を喚起しているであろう誰かの存在、その感情、が、そもそもその基底にあるのだということを強く感じさせる。感覚そのものと、その感覚が「そこ」において生起している場所(誰か)が、感覚と感覚とがモンタージュされる時にあらわれるイメージの隙間(ブランク)の力によって結びつく。しかしそれは、主体というよりもむしろ記憶が生起する場所(あるいは基底材)と言われるべき何かであろう。
以下は、デニス・ジョンソン『煙の樹』からの引用(P72〜73)。
《クラブの表でタクシーを待ち、午後遅くの日差しの中に立って、目の前の広い土地を見回した。ジャガランダやアカシアの木、釘がてっぺんににずらりと並ぶ壁、そして施設の入り口には、アメリカ国旗。国旗を見たとたん、涙が出てきて、喉がつかえた。彼の人生の情熱のすべてが星条旗の中で渾然一体となって痛みを生み出し、その痛みで彼はアメリカ合衆国を愛した---その痛みで、第二次大戦の写真に写るアメリカ兵たちの汚れて飾り気のない誠実な顔つきを愛し、その痛みで、年度末に緑色の校庭に降り注ぐ激しい雨を愛し、その痛みで、子供時代の夏休みの感覚の思い出を慈しんだ。カンザスで過ごした夏の日々。ベースを回ったこと、草の上に怪我もなく倒れ込み、暑さで頭がずきずきし、通りには風のない午後にまどろみ、巨大な楡は濃くはっきりとした影を落とし、ラジオのつぶやきが窓枠越しに聞こえ、赤い翼のクロムクドリが旋回し、大人たちは追い求めたものが理解不能になってしまったことを悲しみ、数々の声が次第に遅くなっていく夕暮れの中庭を越えてきて、列車が町から空の中へと動いていく。国への愛、祖国への彼の愛は、夏のアメリカ合衆国への愛だった。
潮っぽいそよ風で国旗はうねり、その向こうでは太陽が沈もうとしていた。このマニラ湾の日没のような強烈な濃い赤色を、自然の中で見たことはなかった。消えかかってゆく光は恐ろしいほどの生命力で海と低い雲を満たしていた。みすぼらしいタクシー彼の前に止まり、注意深く特徴を消した二人の外務省の若者が後部座席から降りて、情報局の匿名の若者が乗り込んだ。》