あまりにも夢の濃度が濃すぎて

●あまりにも夢の濃度が濃すぎて、眠りがきれぎれになってしまう時がある。そういう時、眠りと眠りとの間にある目覚めの時のぼんやりした頭は夢の世界と地続きなので、目覚める直前にみていた夢のイメージのいくつかが、その感触までなまなましく残っていて、そのイメージを反芻するようになぞると、はっきりと目が覚めた後にも、イメージをしばらく忘れないでいることが出来る。(しかし、はっきりと覚醒してしまうと、そのイメージはどうしても干涸びたものになってしまうが。)
●夢のなかで、いま夢をみているのだと意識していることは結構あるのだが、その意識は、横たわった状態にある身体の感覚が、夢のイメージにもつきまとうように貼り付いていることによる、と感じられる。
●いま、見ているのが夢だと意識しつつも、この夢は、現実にあった出来事のつづきとしてあるのだ、と意識されていることもある。(というか、頻繁にそういうことがあるのかは分からないのだが、今朝の夢がそうだった。)現実にあった、友人の結婚式でのエピソードが夢の出来事の根本にあり、その展開としてこの夢があるのだ、と、夢のなかで意識されていた。しかし、眠りと眠りの間のぼんやりとした目覚めの状態で夢を反芻している時、その夢のもととなっている友人の結婚式のエピソードなどまったく憶えがなくて、そもそも、夢のなかで友人となっている人物は芸能人で、一面識すらないと気づくのだった。だが、ふたたび眠りにおちてゆくと、その偽の記憶が再度肯定され、自分自身を説得するための証拠として、それが事実であるという痕跡がいくつか示されさえする。例えば、お前が以前に書いた、あの雑誌に載っているあの原稿に、そのエピソードの一端が反映されているではないか、とか、あの時に撮影したビデオテープが存在するはずで、起きてから確かめてみればいい、とか。実際にそんなものはありはしないのだが、その雑誌に原稿を書いたことはあったりして、その嘘のつきかたは結構巧妙だったりする。しかし、そこまでして自分に嘘をつかなくてはならない理由は、夢に出てくるその芸能人を「友人だ」と言い張りたいからだとしか思えないのだが、すくなくとも意識の上ではその芸能人に関心はなく、特に良い感情も悪い感情ももってはいないのだった。
●これは夢だと意識しつつ夢をみていて、その、いま見ている夢の展開のもとに「現実」の記憶があると意識されていて、しかし、そのような記憶は実際にはない、という時、夢の展開の基底にあるとされている記憶自体は、どこからやってきているのだろうか。たんに、その夢がみられるより(時間的に)前に見られた夢の記憶が残っている、ということではなさそうだ。おそらく、その夢の展開と同時に、もととなる記憶もつくられているのだ、と、眠りと眠りの間のぼんやりとした目覚めの時の感触から、そう思う。今日、本当に書きたかったのは、この、夢の展開と、その展開の基底となる(偽の)記憶とが「同時に」生起し、「同時に」かたちづくられている、という、眠りと眠りとの間のぼんやりとした目覚めの時に驚きとともに感じた、重層的な生成とでも言うべき感触の生々しさについてだったはずなのだが、夢のイメージそのものについてはいくらか記憶できても、重層的生成が今なされているという時の手触りについては、はっきりと目が覚めてしまうと、もうほとんど残ってはいないことに気づくのだった。(だから、書いていることも、そこからどんどんずれていってしまう。)