●必要があって、学生時代の作品を一点、実家まで取りにいった。(実家には、ぼくの過去の作品の収蔵庫となっている部屋が一部屋あるのだが、そこは、普通に物置がわりにもなっていて、家の普段使わない荷物とかもごちゃごちゃ置いてあって、その奥から一点を探し出すのはけっこう苦労する。)91年につくった色面分割による作品で、自分でも観るのは10年ぶりくらい。この作品は、学生時代につくった作品のなかでは最も好きな作品の一つなのだが、自分で「こんな感じだった」とイメージしていたのとは、微妙なズレがあった。もうちょっと引き締まった、シャープな感じの作品だと思っていたのだが、そうでもなかった。今、こういう作品をつくるとしたら、ここではフィニッシュにしないだろう、という、ちょっとした違和感(感覚のブレ)を、最初に感じた。しかし、そもそも今だったらこういう作品はつくらないわけで、技術的な問題はともかく、多分、こういう作品を本気でつくっていたこの頃の感覚の方が正確なのだろうと思い直す。そう思いながら、しばらくじっくりと眺めていると、むしろこの、シャープでなさ、中途半端さの具合こそがこの作品の積極的な意味なのだったと感じられるようになる。(とても感想の言いづらい作品だと思う。「言葉に出来ない感覚」があるというのではなく、自分がこの作品から感じている感覚を、自分で掴みづらい、と言うような感じだ。)そして、そうだとすれば、やり方や形式はかなりかわったとはいえ(そして、多少は上手くなったとは思うのだが)、結局、自分がやろうとしていることは、15年前と今とで、あまりかわりばえしないものだとも思うのだった。いや、意識的に「やろう」としていることは確かに違うのだが、それ以前のもの、何かを「やろう」とする意識そのものを成立させているものが、あまりかわっていない、ということだろうか。