●昨日の日記で引用したラカンの、最初の《先日私はちょっと休んで眠っていたとき、目覚めぬうちに何か戸を叩く音がしたおかげて目覚めなくてすみました》というところと、最後の《私が一見したところ私を目覚めさせるノックのもとで夢をみはじめた一瞬》というところは、つまり同じことを言っているのだが、まるで岡崎乾二郎の二枚組のように、反転しつつ対応している。最初の文では、ノックの音の「おかげで」目覚めずにすんだのだが、次の文では、ノックの音は目覚めさせるものとなっている。しかしどちらも、ノックの音によって、目覚めへの動きと、目覚めを遅延させる夢の駆動が同時に立ち上がっていて、目覚めようとする「私」と眠りにに留まろうとする「私」とが分裂し、その綱引きの中間に、現実界に触れた「印」としての一瞬の夢が発生する、ということを、この二つの文の関係が語っている。
ここで夢は、現実界の何かしらを表象しているのではなくて、現実界には表象がないということを表象し(つまり、それ自体には意味がない)、しかし「ここ」に現実界(表象の裂け目)があるのだというマークとしてあらわれている。ラカンの言う表象代理というのはおそらくこのことで、それは表象がない(この世界の客観的な因果関係-表象全体の配置のなかにそれが書き込まれる場所をもたない)のだが、それは「実現化されていないもの」という形で存在するということをその「印-夢」が示す(だから印-夢のもつイメージ自体に意味があるわけではない)。
それ自体としては意味のない、シニフィアンからシニフィアンへの無限の送り返しとしてある象徴界と「主体」とが関係をもつのは、この点においてだろう。ラカンが「fort-da」遊びに見出すのは、この意味のない、たんなる言葉の上の差異でしかない「あっち/こっち」という差異-振動こそが、その意味のなさにおいて、「母の立ち去り-私と世界との分離」という表象の場に位置をもたない「根源的な裂け目」の「表象」の「代理」(しるし)となる、ということだ。
(しかし同時にこれは、たんに言葉-象徴界の上だけで作動するのではなく、「fort-da」と発声すること、糸巻きを投げてはたぐり寄せること、という身体の運動(の感覚)、糸巻きが見えたり、見えなくなったりするという視覚的な振動、などと連携することで、その全体で、はじめて表象の代理として機能する。ぼくが現在最も興味があるのは、この、裂け目-象徴界-身体的運動(の感覚)-視覚的イメージという、本来全然別の系列にあるものが、どのように連携-関係し、どのように分裂-並列しているのか、ということなのだが。)
ラカンは次のように書く。
フロイトが孫の遊び、つまり「あっち-こっちfort-da」遊びの繰り返しの中に反復を見てとったとき、彼は、子供は代理物を獲得することによって母の消失を埋め合わせている、と強調することもできたでしょう。しかし、それは二次的なことです。(略)それ以前に子供は、母親が彼を置き去りにしたその点、彼のそばを離れたその点にこそ注意を注いでいるのです。母の不在によって開いた裂け目はしっかりと開いたままであり、それこそが糸巻き投げの原因です。》
《この行動全体は反復を象徴化していますが、この反復は決して母の回帰を呼びかける欲求、たんに叫び声において表されるような欲求の反復ではありません。それは、主体における「分裂」の原因としての母の立ち去りの反復です。それは「fort-da」という交互に後退する遊びによって乗り越えられます。「fort-da」というこの遊びは、その交代においてただ「こっち」に対する「あっち」であり、「fort」に対する「da」であることだけを目指した遊びです。この遊びが目指しているもの、それは、代理されたものというかぎりで本質的にはそこにないものです。なぜなら、この遊びそのものが「表象」の「代理」であるからです。》
●しかしやはり、象徴界よりも「夢-眠り」の方が強い、というニュアンスも書き込まれている。
《私もまた母親的直感によって教えられて気づいたことがあります。まだ言葉にならない声でやっと発せられた呼び声---その後数ヶ月にもわたって何度も繰り返されたその呼び声---にもかかわらず、私が立ち去ってしまったことによって外傷を受けた子供が、その後かなりたってから私がその子を抱き上げるたびに頭を私の肩につけたそのまま眠りに落ちてしまうのでした。眠りだけが、その外傷以来私がそうであったところの生きたシニフィアンにその子を近づけることができたのです。》
●ちなみに、ぼくが岡崎乾二郎の二枚組の作品についてもつ疑問は、象徴的なもの-言語の次元では成立する、シニフィアン共時的な構造(パラディグマティックな構造)が、そのまま、視覚的な認知の次元でも成り立つと考えてもいいのだろうか、という疑問としてある(簡単に視覚的認知といっても、それはとても複雑な組成で成り立っているのだから、それが全く作動しないと言っているのではない)。それはあくまで「疑問」であり、つまり「そうだということにしてしまってよいのか分からない」ということで、否定でもなければ批判でもない。「疑問」というのは保留であり、保留することによって一定の距離をとる(つまり、自分はそういう風にはしない)ということで、「分からない」からこそ、ことあるごとに、それについて考えてしまう、ということでもあるのだ(考えるっていうのは、そういうことだ)。