那須博之監督が亡くなられた

那須博之監督が亡くなられた。85年から88年の間に6本つくられた那須監督の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズは、ぼくにとって、相米慎二の『ションベンライダー』とともに、映画というものがまず「視覚」に訴えるとこによって人を魅了するのだということを教えてくれたものだった。そこには「風景」が写っていて、そのような「風景」は「目」によってしか捉えられない。「風景」は「目」から入って、様々な感覚、様々な感情、様々な記憶と雑多に結びつくのだけど、そこには「目」から入ったのでなければ生まれない、独自の感覚の「質」の生起がある。視覚は、視線を向ける、とか、目を背ける、とかが出来る程度には能動的だが、そこにあるものしか見ることが出来ない、そのにあるものが否応無しに見えてしまう、という意味で受動的なものだ。つまり「目」は、「見えてしまうもの」を受け入れるしかないのだ。映画のフレームのなかに写っている様々な「見えてしまうもの」の表情は、そこで展開されている物語や登場する人物などよりもずっと強いものとしてたちあがる。(それは勿論、『ビー・バップ・ハイスクール』の物語や人物がきわめて単純な形態しか持っていないからでもある。)そこでは人物も、たんに「見えるもの」のひとつでしかなく、他の様々な見えるもの(風景や事物)と(ほぼ)同等の、見えるものの表情へと解体される。勿論、通常の視覚では、風景よりも人物の方が重要であり、強いものとしてたちあがる。人物の方が、私という個体が生きて行く上での利害や欲望に強く関わるものだからだ。しかし、私が映画のなかの登場人物には決して殴られることはない、という意味で、スクリーンのなかでは人物が人物であるという意味は後退するので、それはひとつの視覚的な形態であり、表情であるようなものとなる。スクリーン上の視覚においては、利害関係が括弧にいれられるので、通常の視覚では取るに足らないものとして見落とされる事物の細部の表情が、逆に、感覚に強くはたらきかけ、浮上してきたりもする。人物と風景や事物との違いは、人物があるまとまった形態を保持したまま(仲村トオルなら「仲村トオル」のまま)、移動したり運動したりする、という点くらいだろう。
ビー・バップ・ハイスクール』シリーズに登場する風景、例えば、真ん中に運河が通っている下町風の町並み、そこに並ぶ家々の表情、土の道、停泊している古く錆びの目立つ船の、それを浮かべている水の、表情、あるいは、学校の屋上のフェンスやコンクリートの質感、灰皿代わりにつかわれているバケツの質感、その背景としての空、あるいは、デパートの屋上にあるような遊園地の中途半端でチープな華やぎ、ケンカの場所として使われる、廃墟となったショッピングセンターの荒んだたたずまい、そこに生える雑草、捨てられたビール瓶、舞い上がる土ぼこり、等々。それら「見えているもの」が視覚を通して感覚のなかにたちあげる「質」は、今見えている「それ(その映像)」によってしか引き起こされない、それ以外のものでは代替することのできない「質」であり、そしてその「質」は、それを「見ている」ことによってだけ支えられており、それがスクリーンから消えてしまうとともに、(ある茫洋とした記憶の感触のみを残して)消えてしまう。その「質」は、私にとって、私の利害にとって、何か意味があるわけではないのだが(つまり私の能動性、私の行動可能性とは何の関わりもないのだが)、にも関わらず「目」はそれを見て(見せられて)しまうし、その「質」は感覚のなかに強く(半ば強制的に)生起してしまう。(そしてそこには、必然的にある感情が付着してしまう。)映画のフレームは、私という個体の利害とは無関係な「視覚像」を示すことで、人間と世界との関わりとは切り離された「見ること」を浮上させる。いわば非人間的な視覚によって生起させられる、非人間的な感覚の「質」が無数にたちあがる世界が出現する。それは「見ること」がほぼ「受動的なもの」に徹することが強いられる世界でもある。そのような非人間的な世界で、ほとんど人間とは言えないような単純な人物たちが暴れ回る様を観て、それに魅了されることで、おそらくぼくは、人間的な世界(人間的な関係の網の目によって生じる世界)から一時的に退行して(逃避して)、「癒されて」いたのだろうとも思う。(『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズについては、ここ(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/ni.a.12.html)、の、03/04/15にも書いています。)