08/03/21

●代々木のギャラリー千空間での、堀由樹子展「道草」について。(四月八日まで。水、木曜休み。)
●多分、この展覧会は「happen」という作品を観るためのものとなる。その隣りにあったもう一点の大作(「海へと続く道」)は、あまり上手くいっていないように思えた。(それはおそらく、黄色の位置が決まっていないので、黄色がまるで「神秘的な光」みたいに見えてしまっているせいだ。それと、あの、あまりに遠近法的な構図というか、作図で、絵を成立させるのは、どう考えても難しいと思う。)
「happen」は山を描いた作品のように見える。堀さんは今までも風景のようなものを描いているけど、今までのものと異なっているのは、空間のスケールが大きくなったこと、画面の上にいくに従って遠ざかってゆくような奥行きが認められること、抜けている空間としての空が画面最上部分に描かれていること、等がある。今、VOCA展でみられる「畠」のような絵は、以前までのものの延長で、風景ではあるけど、あくまで平面としてみられる。だが「happen」にはあきらかに奥行きが認められ、そのことで、例えば画面に対する線の入り方や、形のあり方の自由度が増し、それによって画面に複雑な動きが生じ、さらに色彩の新鮮さをも導きだしているように思えた。
ただ、同時に、この作品ではまだ、線(線として見える赤の部分)の、「奥行きのある空間」に対する関係の仕方が明確ではなく、それは時に平面的な空間のなかで作用する線のようであり、時に、奥行きのある空間において、形態に寄り添って「位置をもつ」線のようにも見える。勿論、平面であるキャンバスに絵を描く時、「線」は常にどっちつかずであるしかないのだけど、その「どっちつかず」の線たち組織の仕方というか、制御の仕方にばらつきがあり過ぎるようにも思えた。(ここ、自分で書いてても、何言ってるのかよく分からない文だなあと思う。)
ぶっちゃけて言えば、もうちょっと整理されてていいんじゃないか、という感じ。色彩の新鮮さと、複雑な表情の面白さが大事にされているのは分かるし、それは良いと思うのだが、ここまでだと、まだ混乱の印象の方が先に見えてしまうように思えた。もうちょっと整理しても、表情の複雑さは充分に「見える」と思う。(多分、「空」の処理の仕方とかに問題があるんじゃないかと思った。)
VOCA展の「畠」だと、納まりもいいし、見えやすいのだけど、そこにもうちょっと膨らみというか、揺れが入り込めるような奥行きをつくりたい(堀さんは、こっちも動いているし、向こうも動いている状態、というような言い方をしていた)というのは、すごく分かる気がするのだけど、それって、描いている時の画面の把握やコントロールに必要なものが、飛躍的に増やすことになると思われる。すごく難しいところに踏み込んでいるように思えるし、その成果として、色彩の新鮮さと表情の面白さが出ていると思うのだが、それがまだ充分には整理されていない、という印象を受けた。
●あと、この展覧会を観に行った人は、ギャラリーのスタッフに頼んで、是非スケッチブックを見せてもらうことをお薦めする。堀由樹子という画家のポテンシャルの高さをととても瑞々しく感じることが出来ると思う。
●「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」(『主題歌』(柴崎友香)に収録)について。
「六十の半分」の世界が、一気に鮮やかにたちあがるのに対して、こちらはもっとゆっくりと、ちょっとまどろっこしく感じられるほどに少しずつ、しかし分厚く、空間がたちあがり、時間が積み重ねられる。それはまさに、深酒した翌日、ぼうっとした頭や重たい胃の状態で目覚め、徐々に昨夜の状況が把握され、記憶もはっきりしてくる、といった状態と重なる。読者は、空間の丁寧な描写の積み重ねのなかで、ゆっくりと登場人物が置かれている状況を把握する。二つの冷蔵庫、ソファーで寝ているちょっと苦手な感じの女の子、畳に寝ている名前の知らない男の子、外から射す午後の光と軒の影、外の音、そして、昨晩までは人が大勢いたその部屋に、自分も含めて三人しか人がいないという不在感。おそらく、パーティーというほど大げさなものでなく、友達と、友達の友達くらいの人も集まるというゆるい集まりで、遅くまで騒がしく呑んでいた昨夜があり、そのままいつの間にか寝てしまって、目が覚めたらぽつんとそこに残されていたという感じだろう。親しい友人のものであるとはいえ、他人の部屋であることの、親しさとよそよそしさ、その新鮮さ。
そしてどうやら、そのゆるい集まりは曖昧に今夜もまだつづくみたいで、祭りの後のようなぽつんと取り残された寂しげな感覚は、徐々に人が集まって来ることで、まったく消えはしないで持続したまま、そこに新たな空気が流れ込んで来る。(まったく消えはしないのは、そこにもっとも重要な人物の不在が常にあるからなのだが。)そのような感じが、空間の丁寧な記述と、積み重ねられる時間によってあらわされる。お祭りのようなはなやいだ感覚が、一旦萎みかけながらも、宙づりのまま持続するなかで、小説の中心にいる登場人物の一人は、見えるものや聞こえるものの新鮮さを、ひとつひとつ改めて感じる。その新鮮さは、世界そのものの新鮮さであるのと同時に、その人物の、今はそこにいない人物への思いによって召還されたものでもあるようだ。(もしその不在の人物がここにいたら、その人物のことばかりが気になってしまうと思われるので、このような世界の新鮮さに触れられたかどうかは分からない。)路地の奥にある家、ぽつり、ぽつりと人が集まってくる感じ、不意にかかる音楽、九月の空、畳で寝ていた坊主頭の男に藤田という名前が与えられるくらいには親しい感じになる、洗い物や掃除であわただしく動くその家の住人、琉球ガラスの器の色、層のように重なる時間。
この小説では、前半の友人の家の場面と、後半のクラブの場面とでは、視点となる人物が移動する(絵莉から周子へ)。二人は友人の友人という間柄で、その存在は知っていたが、会うのは初めてという関係にある。二人は共に、恋愛のはじまりの特別な高揚感のなかにいるのだが、今、この場所にその男性はいない。前半の絵莉は、昨晩はここにいて、今はいなくなってしまった男性の不在を感じており、後半の周子は、もうすぐここへやってくるだろうけど、今はまだいない男性の不在を感じている。不在によってその存在を感じ、世界はその不在のなかで膨らみを増してたちあがる。そして、絵莉と周子は、クラブのステージで踊るダンサーについて、まったく同じ感想をもつことで一瞬重なり合う。(おそらくここの部分が、「主題歌」へとつながってゆく。)