08/03/20

●新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで「パレルモパレルモ」(ピナ・パウシュ ヴッパタール舞踏団)、代々木のギャラリー千空間で、堀由樹子展「道草」。
●「パレルモパレルモ」はすごかった。もっていかれた。すごかったけど、そのすごさの内実の多くは、物や人が、ほとんどナマのまま舞台の上にある、という種類のものであるように思った。生真面目なダンサーなら、ピナ・バウシュなどキワモノだ、と言うのではないか。実際、舞台のつくりも、ショートネタコント集みたいというか、ぼくはドリフターズの「八時だヨ、全員集合」などを思い出した。ドリフのコントで、舞台上につくられたセットに、実物の自動車が突っ込むという大ネタ(オチ)があったけど、冒頭の、ブロック積みの壁が崩れるところ(隣りに座っていた中年の女性は、ヒッ、と言って座席から少し浮き上がった)とか、その少し後の爆発(今度はぼくがヒッ、となった、しばらくその残像で瞬きの度に光がまぶたの裏で発火した)とか、大勢のダンサーがバタバタ駆け回るとか、そういうのって、基本的にドリフのネタとかわらない、安易にエフェクトを狙ったスペクタクルだとも言えてしまう。(というか、それを突き抜けてるけど。)じゃあつまらないかと言えばそんなことはなく、時にうっとりするくらいうつくしいし(しかしこのうつくしさも、何というか、てらいもなくうくつしくしちゃっているという感じではあるが)、時に舞台上はがちゃがちゃと騒がしく荒れていて、そのベタなエフェクト(ネタ)のいかがわしさも含めて、ひどく面白いのだ。
成熟と退廃とは紙一重で、その紙一重のところを揺れている感じと言えばいいのか。成熟の果てのやけくその退廃というか、イロニーとしての退廃というのか。その、成熟の行き着く果て、という感覚が分からないと、たんにロマン主義的なものへの回帰にみえてしまいかねないのだが、そのヤバさと戯れているというのか。これに素朴に感動したらまずいだろうという警戒感をもたせつつも、でもやっぱすげえや、という感じで押し込まれる力技(休憩前の場面とかすごかった)。頭の上に林檎を乗せて全員で踊るのとか、下手すれば新春スター隠し芸大会のネタみたいだけど、それでも壮観だし、ラストのガチョウのダンスのうつくしさには、ベタだなあと思いつつも、ベタに感動させられてしまう。
作品としての統一性みたいなものよりも、即物的ながちゃがちゃ感というか、でこぼこ感で尖っているところが、多分いいのだと思う。時にあからさまにウケ狙いのネタであり、時にあからさまに「ここ感動するとこ」みたいにはずかしげもなく美しく、それが流れとしての必然性や形式としての統一性にあまり頓着されずに、さくさくと切り替わる(ネタのスイッチに切り替えます、とか、いまから美のスイッチをいれます、みたいに)うちに、感情が巻き込まれ、もっていかれる。頭の上に林檎を載せて踊る場面で、何人かのダンサーがそれを落としてしまうとか、女性ダンサーが、これから恋人に会いにゆくために着替えているみたいなダンスをする時、舞台上にまき散らす香水の匂いが、すこし遅れて観客席まで漂ってくるとか、そういうベタな(作品として制御されていない、今、目の前でやってます、みたいな)即物性みたいなものが、作品を退廃的な美とか、「普通に面白い」という退廃から救っている。(でも、舞台が汚れたり、散らかったままになるというのは明らかに「狙い」としてやっているわけで、その辺りも、すごく効果的であるからこそ、危うくもあるのだけど。)このような即物的なざっくりとした粗さというのか、ナマであることの感触を強くみせつけられると、逆に、例えばチェルフィチュなどで、いまどきの若者の言葉そのままとか、演じているのかどうか分からないだらだら感とか言われているものが、いかに演技として高度に(ある意味では過度に)制御され、組み立てられたものなのかが分かる。「パレルモパレルモ」では、そのような高度な制御よりも、一つ一つの物、一人一人のダンサー、一つ一つの振り付けのもつ、ナマモノの感触の強い押し出しが作品を支えているように思った。でもそれは、例えば「爆笑レッドカーペット」とどこが違うんだ、という危険を常に孕みつつ、やはりどこかで決定的に質が違うと言える「突き抜け」があるのだと思う。
チェルフィッチュの、下五〇センチ切ったという抽象化された(俳優の距離の操作によってその都度意味を変える)舞台美術と、「パレルモパレルモ」のブロック塀や水や林檎の、あからさまな即物性(それはほとんど、今そこにある「そのもの」の現前という以外の意味を、ベルリンの壁の崩壊を先取りしたとか言って無理矢理「読もう」としなければ、持たない)は、まったく対極にあるもののように思われた。