アラン・プラテル・バレエ団「聖母マリアの夕べの祈り」

●勧められて、アラン・プラテル・バレエ団の「聖母マリアの夕べの祈り」を、渋谷Bunkamuraオーチャードホールに観に行った。最初、幕が開いて、舞台の上にシャツとか肌着とかを思わせるような白い布で覆われた大きな山のような舞台装置があらわれた時には、ちょっとした警戒感を持った。実際、この装置は、「作品」としては「意味」をもつかも知れないけど、ダンサーの動きそのものに、決定的な影響は与えていなかったように、ぼくには思われた。最初に抱いた警戒感のようなものは、ダンサーが登場してからもしばらくは消えず、いかにもポストモダン的な、コンテンポラリーダンスに、(ちょっと下品な)見せ物的、コント的な要素を混じり込ませるみたいな感じは、こういうのが今のヨーロッパではウケるのだろうなあ、という冷めた感想しか持てなかった。それが、(あらかじめ客席に仕込まれていた)ダンサーたちがバラバラと舞台に集まってきて、それぞれがまったく勝手に動き出すかのような群舞になったあたりから、警戒感よりも、「うわっ、凄げえ」という感じの方が強くなる。 個々のダンサーが(音楽に合わせてと言うよりも)同じ音楽のなかで、それぞれがバラバラに動いているような素晴らしい群舞のなかから、(シャツを脱ごうとして首がひっかかって抜けなくなり、反転したシャツに身体がくるまれてしまったかのように)身体を袋に包まれて、手と足それぞれ一本だけを外に出して踊る(もがく)ダンサーがピックアップされてゆき、その女性ダンサーを袋から救い出した男性ダンサーとが二人で、互いに逆立ちしながら絡み合うようなペアのダンスに至る流れが、この作品で最も充実したところであるように、ぼくには感じられた。(このテンションがずっとつづくとしたら、これはとんでもなく凄い作品だと思って興奮したのだが、残念ながらそこまではいかなかった。)
とにかくこの作品は、個々のダンサーの得意技を生かしつつも、様々なアイデアがてんこ盛りのように盛り込まれていて、アイデア的にも、そして(おそらく)体力的にも、押して押して押しまくるような感じのつくりで、それはとても楽しくて、圧倒されるものの、押し過ぎで単調になってしまう場面もあったように思われる。得意技の披露はよいのだけど、時にそれがウケを狙い過ぎに感じられたりした。この作品は、精神科医が撮影した患者のフィルムを参照しているらしく、「痙攣」のような動きが多用されるのだが、あまりに多用されるので、それが動きというよりもむしろ「痙攣」という「意味」でしかないように感じられる場面がしばしばあった。それと、舞台装置の「山」は、やはりどうしても「意味」として存在してしまっていて、(袋詰めにされていた女性ダンサーが吊り輪のような動きをみせた場面を除くと)ダンサーの動きを触発するというよりも、どちらかというと邪魔してしまっていたように思われた。終盤、ダンサーたちが並んで、集団マスターベーションするみたいな場面があるのだが、そこを(音楽もしつこく反復させつつ)あれだけ長く見せるのも「押し」過ぎというか、それは「意味」が「動き」を殺してしまっているように思われた。
最後まで「警戒感」がすっかり消えてしまうことはなかったのだけど、それでも全体としてたいへん面白かった。袋詰めにされていた女性ダンサーは、終始、舞台じゅうを駆け回ってその存在を最も強く主張していたし、前半はあまり目につかなかったのだけど、後半になって、芥子色のシャツを着た(服を脱ぐと右胸の下に刺青のある)東洋的な顔をした男性ダンサーの動きの美しさには目が奪われた。この男性ダンサーは、特に派手な得意技の披露のようなことはしないのだが、動きのひとつひとつがとても魅力的なのだった。ダンサーというよりもコメディアンのように動く、ネクタイ姿の男性ダンサーの動きも印象に残っている。ごつい、というか、いかつい感じの、観客に日本語で語りかける女性ダンサーは、ダンサーというより、その身体のいかつさによって印象的だし、ちょっとウケを狙い過ぎな感じの動きをするおかっぱ頭の東洋人顔の男性ダンサーも、飄々として憎めない感じだ。(ダンサーの編成は多国籍だが、この東洋系のダンサーがカンフー風の動きをする以外は、特にその多国籍性が強調されているわけではないところは、とてもいいと思う。多国籍というよりも、単にそれぞれが個人である感じだ。)あと、この作品では物がよく投げられる、というか、放られる。靴が飛び、服や布が飛び、そして唾が飛ぶ。いきなり物がポーンと放られると、それがとても新鮮に感じられた。
とはいえ、この作品で最も魅力的なのは、同じ音楽のなかで、しかし、十人ほどのダンサーそれぞれがバラバラに動く群舞の場面の、きわめて充実した喧噪だろうと思う。『ローズ・イン・タイドランド』という映画があって、映画としてはたんに下らない作品なのだが、そこで、主人公の少女と、隣りに住む吃音で知恵おくれのおっさん(事実上、二人は子供同士だ)とが交わす、会話としては全く成り立っていない会話が面白い。二人はそれぞれ孤立し、互いの言葉を全く自分勝手に理解して話している。たんに、言葉がちぐはぐだというだけでなく、この二人は一緒に遊んでいながらも、互いにまったく別の方向を向いているし、全く別のことを考えている。にも関わらずに、この二人はあたかも言葉が通じているかのように振る舞っているし、なんとなく一緒にいて分り合っているような感じになっている。「聖母マリアの夕べの祈り」の群舞の場面は、この映画の二人の会話を、同時に十人でやっているかのように思える。