東京都現代美術館で、マルレーネ・デュマス展

東京都現代美術館で、マルレーネ・デュマス展「ブロークン・ホワイト」
友人から「デュマス観た」と言われて「誰?」と応えたら「え、知らないの」と呆れられた(とても有名な人らしい)ので、観に行った。80年代以降、「現代美術」はあまりにも何でもアリになってしまって混沌としたため、その揺り戻しのように90年代中頃くらいから、ヨーロッパのアートシーンでは絵画の復権みたいな流れが出て来て、多分そういう作家の一人なのだろうと思った。
会場に足を踏み入れた最初の印象が、こういうのは「好きじゃない」という感じだった。形式的には表現主義的(ノルデなどを思わせる)で、しかし妙に上手いというか手慣れている。色価を意図的に不安定にすることで、ある種の不安な感情をかき立て、形態を微妙に歪ませること(ジャパニーズホラーの「心霊写真」の手法を思わせる)で、視線をそこへ誘い込んで固着させ、絵の具をヌルッとした感じで使って物質感を消して図像を映像的にすることで、描かれた対象との距離が不確定で、それを掴めない(それに触れられない)感じをつくる。やりくちはミエミエだけど、それらを上手く使って、何とも不穏なイメージをつくりあげる。本当はそこに見るべきものなど何もないのに、こちらの不安をかき立てるようなイメージが目をひっかけ、そこに釘付けにし、しかしちゃんと見ようとすると見るべきものはないから、視線がスッとかわされて、そこ(イメージの場所)に決してたどり着けない感じが演出される。描かれているのが顔や人の身体であるだけに、それは「他者」というたどり着けないもの、決して我有化できないものの核のようなものがそこにあるかのように、雰囲気を演出する。こういう作家が、90年代以降のヨーロッパの歴史的、あるいは哲学的な流れのなかで評価されるのは分らないこともないけど、でも、これではダメだと、ぼくは思う。(ぼくは、画面に不安定な感じをつくりだすだけのために使われているような、この人の黄色やくすんだ緑の使い方が「許せない」。特に黄色をこのように使うのは、まったく三文芝居の演出のようだ。)
この人の絵は、人間の「顔」を特権化している。顔が描かれていない絵でも、「顔の不在」が強い意味をもつ。表情が読み取れず、揺らぐように歪んで、捉え難いがゆえに人の視線をそこへと固着させる(我有化できない「他者」としてあらわれる)「顔」と、顔(精神?人格?)から疎外されて「晒しもの」にされたような、物質という次元に貶められたかのような身体。例えば「グループ・ショー」という作品に描かれる「尻」は、(顔の不在によって)貶められた「尻」であり、「尻」それ自体を肯定するものではない。(この画家の描く身体は「檻」のようなもので、常に死やポルノグラフィー的イメージに捉えられ、他者の視線に暴力的に晒されている。そこから逃れる得るのは、とらえどころのない「顔」のみであるかのようだ。)この画家が繰り返し描いているのは要するにそういうことで、これは「身体」の可能性を探り、それを開こうとするようなものではないのではないか。このようなイメージが、90年代以降の世界(あるいはアウシュヴィッツ以降?、9・11以降?)にとってシリアスでリアルな問題であること(無視出来ない「外傷」としてあること)は理解できる。でも、だからこそ、たんにそのような世界を「反映した」だけ(あるいはそれを「告発する」だけ)の作品ではダメで、そこから逃れ、身体の別の可能性を開くような作品がつくられなければ、意味がないとぼくは思う。