04/12/18

仲俣暁生『極西文学論』。この本は何かを掘り下げて論じるというような本ではなく、ある「地域」の存在を指し示し、人々にそこへ訪れることを誘い、そのなかを訪れた各人がそれぞれの関心に従って歩き回り、あるい立ち止まってその場所を掘り下げることが出来るようにするための、地図でありガイドブックのようなものだろう。しかしこのガイドブックは、既に存在している「地域」をたんに示す(解説する)のではなく、潜在的なものとしてある空間を、地図を書くという行為によって可視的な「地域」として浮かび上がらせるという効果をもつ。だからこの本は、一箇所に長くとどまることなくある作品から別の作品へ、ある視点から別の視点へと速やかに移動し、さくさくと軽く読めるように出来ていて、それは個々の作品そのもの分析よりも、その作品から伸びて行く多数の道筋を示すことに主眼が置かれていて、そのことはこの本(地図)にとって必須の条件であろう。この本を読む者は、次々と移り変わって行く視点(光景)の移動を面白く眺めながらも、これではやや突っ込みが足りないのではないかという軽い不満を感じざるを得ないのだが、その不満こそが読者それぞれに、興味を持った小説を実際に読む事や、書かれている事をもとにして各自が勝手に別の事を考えたりする事を誘発するように出来ている。この本は、ある「地域」(の存在)を立体的に浮かび上がらせるためのいくつもの視点を示してはいるが、その中身を高濃度に埋め尽くす事はせず、そこを訪れる者が自由に動き回れるようなスペースを開いており、つまり、読み解くために大きな負荷を必要とする難解な批評でもなく、たんなるブックガイドでもなく、携帯に便利で使い勝手の良いガイドブックとして書かれていて、その意味できわめてバランスよくつくられていると思う。仲俣氏がこの地図を描くための叩き台として用いているのは言うまでもなく村上春樹(村上春樹アメリカ、村上春樹と恐怖、村上春樹と視線、の関係)で、村上氏の小説によって描かれた地図をもとにして、それを否定し、そこに90年代以降に日本で書かれた小説と、それだけではなく、音楽や映画や歴史などの様々な要素を次々と接続することで、地図を新たなものに描き直している。つまり、否定的なものとして扱われてはいるが、この本が描き出す地図の「軸」には、村上春樹という作家がしっかりと横たわっている。
●この本で主に扱われているのは、そのタイトルから予測される「極西」という地理的な概念よりもむしろ「視線」(と、その視線によって生まれもし、解体されもする「恐怖」)の問題だろうと思う。このことは、吉本隆明の言う「世界視線」やGPSなどによる視線(世界のなかでの「私」の位置をあらかじめ確定してしまい、「私」を一方的に「見られるもの」としてしまう絶対的で俯瞰的な視線)に対する「ささやかな」抵抗として、吉田修一の『パークライフ』が、それぞれがバラバラである、水平的な視線、見上げる視線、見下ろす視線、などの複数の(個人の)視線が想像的に交錯する場所で、世界が立体的にたちあがる様を描いた小説だと分析される冒頭近くの部分からはっきりと示されている。(ぼくは吉田氏の小説をそのようには読めないのだが)つまり、「私」のいる位置は、絶対的な俯瞰の視点から決定されるのではなく、一つにはまとめられない複数の視点の、その都度での(想像的)交錯によって立体的に結像されるのだ、と。(そこにこそ「私」の居場所が開けるのだ、と。)そしてさらに、人が常に複数の視点を同時に抱え込む(抱え込まざるを得ない)存在であることが、不可避的に「恐怖」を生み出し、そして同時にその「恐怖」を解体する可能性にも転じるのだということが、ラフカディオ・ハーン吉田健一保坂和志などの小説によって、村上春樹的怪談(恐怖)が批判され、解体される「東京」という章で展開される。ぼくには、この部分が一番面白かった。(この本としては異例に長く引用され、言及されている保坂和志の『夏の終わりの林の中』という小説は、自然教育園という林のなかで実際に起きていることの総体と、そこへ訪れた「ぼく」が知覚したり感じたり考えたり出来得ることと間のズレ、あるいは、実際にその場所に行って感じたことの総体と、それを言葉(小説)によって記述し得ることの間のズレ、あるいは、一緒にそこへ行って同時に同じものを見ているはずの「ぼく」と「ひろ子」の間にある認識のズレ、など、まさに複数のズレによって立体的に「林」の存在や、それを見ている「私(「ぼく」や「ひろ子」)」の存在をたちあげようとしている小説だと思うのだが、ここで、林のなかで起きていることの総体と、それについて人が認識し得る事とのズレは、認識する人の側からしか捉えられないし、その場へ行って感じたことの総体と、言葉で書き得ることとのズレは、(小説なのだから)言葉の側からしか記述できないし、「ぼく」と「ひろ子」とのズレは、「ぼく」の側からしか捉えられない、つまり一方の側からの「捉え切れない」という事実によってしかズレは捉えられないわけで、そのような限定性に、保坂氏が忠実であることはとても重要だと思う。)
●この本には女性作家の小説は全く登場しない。そのことにどのような意味があるのかは分からないが、例えば、村上春樹が、家族から国家にまで繋がるような連続性を断ち切るものとして、架空の(どこでもないどこかとしての)アメリカという概念を必要としたことと、舞城王太郎の『煙か土か食い物』の奈津川四郎が、サンディエゴという現在の居場所と西暁町という懐かしい場所との、二つの具体的な場所で引き裂かれていることを比較している部分、つまり共同体的なものとの関係のあり方が考えられている部分に、この二人の男性作家とは全くことなる懐かしい場所=共同体的なものとの関係を描出している大道珠貴の、『スッポン』でも『ひさしぶりにさようなら』でも『傷口にはウォッカ』でも良いのだが、これらのうちの一編についての分析がちょっとでも差し挟まれるだけで、この部分がくっと厚みと深みを増して立体的になると思うのだが、仲俣氏は女性作家には基本的に興味がないのだろうか。(まあ、大道氏の小説は「極西」という概念にはなじまないのかもしれないけど。)
●この本では「視線」の問題を扱った映画作家として、主にヴェンダースが取り上げられていて、それは正しい選択だと思う。ただ、監視カメラやGPS的な視線と、それによって見られる生身の身体という問題を扱ったジャン・ピエール・リモザンの『NOVO』という面白い映画があるのだが、この映画を仲俣氏だったらどう観るのだろうか。