03/12/31

橋本治の『宗教なんかこわくない!』はとても良い本だと思う。(書かれていること全てをすんなり受け入れられるかと言われれば、ちょっと、という部分もあるけど。)こういう本は手元に置いておいて、折りに触れて読み返してはいろいろと考えたいと思うのだが、残念ながら図書館から借りたものなので、いつまでも自分で持っているわけにはいかない。28日に書いた「確信を与える形式」というのと、ちょっと関係がありそうな部分を引用する。

《なんであれ、人は非合理を信じたりしない。「非合理だから、目をつぶって信じてしまう」のではない。合理的だからこそ"信じる"ということが可能になるのである。(略)そして、一度信じてしまったら最後、その合理性がご破算になってもまだ信じようとして、「非合理を信じている」という悲惨を迎えるのである。(略)愛情とは、「非合理になってしまったとしても、それでもまだ信じていたい」と思う心である。人はそのように、自分が可愛いのである。非合理になったものを愛しているのではない。なくしたくないものは、合理的だと思って信じた、その時の気持ちである。 》

これは宗教についての話なのだが、それだけに限らないように思える。このような意味での「愛情」が、どれだけ状況をややこしくし、他者との対話を困難にしているかについては、誰にでも思い当たるフシがあるのではないだろうか。しかし勿論、このような「愛情」を下らないものだとはとても言えない。もしかすると「私」というものは、既に非合理になってしまった無数の「愛情」の絡み合いによって出来ているものでしかないかもしれないし。

この本には、様々な重要なことが描かれているが、橋本氏による宗教というものの定義は、きわめてシンプルなものだ。それは「自分の頭でものを考える」ことの出来ない人が、「自分の頭でものを考える」ことが出来るようになるための「移行期」に必要とされる思想の形態だ、ということになる。しかし、それはもはや古くなってしまって、現代では有効に機能しない、と。(宗教とは「子供のためのもの」だ、と。)橋本氏にとって宗教は否定されるべきものだが、しかし、歴史的な過程においてそれが必要だった時期があるということまで否定するのは乱暴である、とする。子供には神様が必要であるかもしれない。子供時代にろくな想い出がないからと言って、子供の頃に見た空のうつくしさの記憶まで否定することはないじゃないか、と橋本氏は書く。子供の頃に見た空のうつくしさの記憶を手放すつもりは全くないとしても、同時に、自分が既に子供ではあり得ないという事実も、忘れるわけにはいかないのだが。