●『有限性の後で』(カンタン・メイヤスー)、改めてチャレンジ中。第二章までは、わからないところも、ひっかかりもなく進めた。そしてとてもおもしろい。第一章の終わりで、《超越論的なものの力は、実在論を幻想にすることではなく、実在論を驚くべきものにするところにある》と書かれる。カント以降の(相関主義的な)哲学者であれば、科学的実在論が成立してしまうことに驚かなければならないし、それによって突きつけられた問い(まじめな相関主義であれば否定しなければならないはずの「科学的実在論」を、相関主義以降の哲学はどう位置づけられるのか)に向かい合わなければならない、と。そして、第二章には次のように書かれている。
《ゆえに、祖先以前性の問題を解くための全条件は、明確になると同時に著しく制限される。もし、祖先以前的な言明の意味を、しかし独断論に戻ることなくして保ちたいのならば、私たちは、絶対的に必然的な存在者にふたたび帰着することのない、絶対的必然性を発見せねばならないのである。言い換えるならば、私たちは、絶対的必然性であるような何かを一切考えずに、絶対的必然性を考えなければならないのだ。さしあたり今のところは、この言い方のパラドクス的な見かけをそのままにしておこう。今のところ、唯一納得しておかねばならないのは、私たちにはほとんど選択の余地がないということだ---すなわち、もし理由律および存在論的証明の無条件な妥当性を信じないのならば、そしてまた、もはや祖先以前的なものの相関的な諸解釈も信じないのであれば、私たちはまさしく先の言明---絶対的存在者なしでの絶対的なものに関する言明---のただなかに、解決の原理を求めなければならなくなる。》
●このように、抽象的な議論を丁寧に重ねてゆくこの本だけど、第二章の終わりにいきなり生臭い、現実的な側面があらわれる(この本で、相関主義=信仰主義の代表として名前が挙げられているのは、ウィトゲンシュタインハイデガーレヴィナス)。
《歴史的な信仰主義の反形而上学はつねに、理性の不法侵入から信心を護ることにあった。》
《(…)信仰主義の絶頂とは、特定の信仰内容の特権化なしに、思考に対する信心の優位性を思考することだからであり、思考によって確立されるべきは、信心の内容は信心のみによって措定されるということだからだ。》
《私たちは次のパラドクスの意味を明確にしようとしている---思考が独断論に対して武装すればするほど、かえって思考は狂信に対して弱腰になるというパラドクスである。懐疑論-信仰主義は、形而上学独断論を退却させたけれども、その一方で、宗教的蒙昧主義を再強化してやまない。(…)現代における狂信は、たんに、西洋的批判理性の成果に暴力的に対立する、古めかしい運動の復活と見なされるわけにはいかないのである。なぜならそれは、正反対に、批判理性そのものの結果=効果なのだから。そして同時に---この点を強調しよう---、この合理性は実際、開放的であったし、また、首尾よく独断論を破壊したのだった。相関主義の批判的威力があってこそ、哲学において独断論は確かに打ち倒されたのだが、同時にそれを原因として、哲学は本質的に狂信からみずからを区別することができなくなったのである。》
《(…)批判の力能は、必ずしもつねに絶対的真理の妥当性を堀り崩す者たちの側にあるわけではなく、むしろ、イデオロギー独断論と懐疑的狂信とを同時に批判するに至る者たちの側にもあるということだ。独断論に対しては、あらゆる形而上学的絶対者の拒否を続けなければならない。しかし他方で、さまざまな狂信の増大する暴力に対しては、思考のうちにささやかなる絶対的なものを再発見することが重要なのである》。
●相関主義の帰結としての相対主義は簡単に否定できるものではない。それを否定して、たとえば近代的な普遍的価値へと回帰することはできない。そうではなく、相対主義を所与のものとして受け入れた上で、そのなかで「ささやかなる絶対的なもの」を探らなければならない、と。
でもまあ、ここまでならばみんな考えている。ここから先がどうなるのか。
●第二章は、《絶対者を思考するという形而上学の要求に対して批判を向けるとき、私たちは、他の宗教を押しのけてみずからの信仰内容を優先させるために「自然な理性」への依拠を主張する、そういう特定の宗教を弱らせることになろう(実際にそうだった)》という文章が出てきてから、ぐっと生臭くなる。メイヤスーのキリスト教に対する強い意識を感じた。信仰に対する強い意識があるからこそ、信仰主義を批判しなければならなくなる、というような。まさに「西洋の哲学者」という感じ。