●お知らせ。「新潮」2月号に、山下澄人『しんせかい』の書評(【先生】の居る場所の「わたし」)を書いています。この小説が今までの山下さんの小説とやや感じが違うのは、【先生】という存在によるのだと思います。【先生】がそこにいるのならば、それを見ているのは「十九歳のスミト」でなければならない、と。
●今日はいろいろあって、『有限性の後で』(カンタン・メイヤスー)の第三章を8ページしか進めなかった。とはいえしかし、93ページの展開には、キャーッと悲鳴を上げて失神しそうなほどにシビれた。論理を一つ一つ積み上げていって、そしてここでの超展開(散々と批判していた相手にパラサイトして反転、みたいな)。論理的であるということは、こんな風にシビれることなのだなあ。そしてこの超展開のあとは、これまで以上にネチネチといくのだろうという気配。