03/12/30

ビデオで澤井信一郎の『仔犬ダンの物語』。これは大変素晴らしいものだった。昔、「リュミエール」に載っていた蓮實重彦澤井信一郎論では、澤井氏の映画は、説得(演出)することと祈願することという、相容れない2つの要素の緊張関係によって成り立っているということが書かれていた。何かを実現するために策を立て、周囲の人たちに向かって命令したり、説得したりすることが演出であるとすれば、そのような演出を周到に組み立てつつも、演出や演技が無効になってしまう地点をこそ、澤井氏は「祈り」つつ求めているのだ、と。この映画はまさに、説得の通じない、演技の出来ない「小学生の女の子」をどのように撮り、どのように映画を組み立てるかということについての映画だといえるだろう。そしてこの点にこそ、一流のロリ系エロ作家としての澤井氏の資質があらわれるのだ。ぼくにとって澤井信一郎の映画で一番好きなのは、松田聖子の『野菊の墓』でも薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』でもなく、後藤久美子(+仲村トオル)の『ラブストーリーを君に』なのだけど、『仔犬ダンの物語』は、その『ラブストーリーを君に』で後藤久美子の「堅さ」の生々しさとでもいうものを捉える眼差しが、小学生を撮影対象とすることでさらに研ぎ澄まされたという風に感じられた。(『ラブストーリーを君に』では、共演の仲村トオルという人もまた、「堅さの生々しさ」の魅力のみで俳優をやっているような人なのだった。)ぼくには、澤井氏の求める「演出や演技が無効になってしまう地点」とは、この「堅さ」の生々しさが露出する瞬間の、なんともエロティックな表情のことではないかと思う。澤井氏にとってのエロティックな視線は、対象を執拗に舐めるように追ってゆく視線によってではなく、演出によってある程度外枠をつくっておいて、そのなかに対象を冷たく突き放すように置くことによって生じるのだと思う。表情や身体の動きの堅さ(身のこなしのぎこちなさ)、一本調子で平板なセリフなどが、恐らく初めて大人たちのなかに混じり、たった一人で(一つの孤立した身体として)カメラの前に立たされる子供の「震え」として、我々の前に残酷にも生々しく立ち現れる。この映画は、70分という短い時間のなかで効率よく物語を語るために、極めて精度の高いルーティーンワークとして、正確に淡々と進行してゆく。この抑制された淡々とした進行がまた、震えの生々しさを際だてる。しかし考えてみれば、このようなやり方は何と意地の悪い、権力者的=演出家的=男性的なものであろうか、とも思う。これは否定しがたい事実ではあるけど、それでも、あくまで演出家澤井信一郎は、作品の段取りを整備する者に留まっており、作品の最終的な行方は撮影対象である女の子に委ねているように思う。両親の離婚によって短い間祖父の家から学校へ通っていた女の子が、父親と一緒に住むことを決意して土地を離れる時、バスの窓から同級生たちが「さよなら」と手を振るのが見えるという、いまやお約束を通り越してコントにしかならないようなシーンを澤井氏はわざわざ設定する。このシーンでバスは橋の上を(不自然なほどゆっくりと)走っていて、同級生たちは川原にいることで高低差が生じ、空間的にダイナミックな動きが出るような工夫はしているものの、このシーンの成否はひとえに女の子の涙するクローズアップにかかっている。作品を締めくくる重要なところで、演出家澤井信一郎は自らの演出によって「決める」のではなく、女の子の表情に成否を委ねてしまう。澤井信一郎における「祈り」とは、おそらくそういうことなのだと思う。この映画に出ている女の子たちが、いわゆる括弧付きの「少女」というものとは全く異なる存在となっているのも、この点に関わっていると思われる。

(余談だけど、この映画でもモーニング娘。の演技はあまりにもひどかった。唯一まともだったのは紺野あさ美くらいだろうか。あと、安倍なつみと斎藤慶子の演技の「質」がそっくりだったのには、思わず笑ってしまった。)