03/12/29

●繰り返しになるが、確信を与える形式とは、目にみえないところで作動しているものであって、それは自分の手で自由に選択できるものではない。しかしそれは完全に決定的なものではなく、個人的な来歴や状況に変化に応じた可変的な部分も多く、常に移ろう不安定な状態にある。我々は、知覚と確信、確信と確信を与える形式を分けて考えることが出来る程度にはその「形式性」に自覚的であり、自覚的であることを強いられる程度に、分裂している。

グレッグ・イーガンの『しあわせの理由』の主人公は、あらゆる喜びが失われた状態から、四千人の脳の神経接続が重ね描きされた義神経の作用によって、どんなよろこびでも偏りなく、最高の精度で感じられるようになる。しかしこのような状態は、完璧であるがゆえに固有性が失われている。(「この私」が四千人の幽霊に埋もれている。)固有性とは限定性と偏りのことであるとすれば、主人公は「私の生」を生きるために自らを限定し直さなければならない。そして、主人公は、自らのよろこびをコントロールパネルによって意識的に操作することになる。これはまさに、確信を与える形式を自らの手で選択することだと言えるだろう。彼はベートーベンを聴きながら、その時に作動している「確信を与える形式」の目盛りを下げる。すると、感動的な話を聞いている途中で話し手が心をこめていないことに気づいたような、作品そのものの強さはかわらないのに現実におよぼす力が失われたような感覚とともに、ベートーベンが色あせる。この部分は、知覚と確信の乖離を自らコントロールしている描写だと言えるだろう。このような能力をもってしまった者にとって「しあわせ」の意味はおおきくかわってしまう。《しあわせのない人生は耐えがたいが、ぼくにとってしあわせそのものは生きる目標とするに値しない。ぼくはなにがしあわせを感じさせるかを好きに選択できるし、その結果しあわせを感じている。》しかし、たとえ「何がしあわせを感じさせるのか」を自らコントロールすることが出来たとしても、そのしあわせが現実(外部の状況)から与えられたものであることはかわらない。これは、物語の冒頭で主人公が感じていた脳の異常による「いい気分」とは異なる。過剰な操作性=選択性を与えられているとはいえ、この主人公はあくまで「健康」である。自らの「確信を与える形式」、しあわせの有り様を自らコントロールすることが出来る主人公は、しかし現実=状況に対しては極めて無力な存在である。このような状態に置かれた主人公は、樫村晴香が「ストア派/人間主義的穏便さ」と呼ぶような認識をもつようになる。《三十歳の童貞で、精神病の経歴があり、財産はなく、将来性もなく、手に職もない。それがぼくだ。そして、ぼくはつねに、その時点で唯一とりうる選択肢の満足度を高くして、ほかはすべて非現実的だと思うようにできる。ぼくは自分を偽っていないし、だれも傷つけていない。それ以上のなにも望まないようにする力がぼくにはあった。》

●四千人ものドナーの脳が重ね描きされた主人公の脳は、どのような本からも楽しみを引き出せるし、どのような人物をも愛することが出来る。《義神経はいまでもぼくにすべてを楽しませ、あらゆることを喜んで受容させようとしていた。そのいうなりになっていたら、やがてぼくはほこりっぽい本棚いっぱいに拡散して、だれでもない、バベルの図書館の幽霊になってしまうだろう。》《四千人ものドナーが愛していた非常に多種多様な人々の多岐にわたる個性を寄せ集めれば、結局は人類全体を網羅することになる。ぼくが自分からその調和を破る行動に出ないかぎり、変化が生じることは決してない。》あらゆる本を楽しみ、あらゆる人物を愛することが出来るのは素晴らしいことであるはずなのだが、それは一人の人間の「生」を不可能にする。しかし、確信を与える形式を自らコントロールし決定し(限定し)なければならない主人公にとって、ある特定のもの(人)を限定して愛するためには、自分から「調和を破る行動」にでるしかない。主人公は、対人関係に関するあらゆるシステムの目盛りをあらかじめ下げておいて、他者を「丸太以上に興味深いものではな」い状態にし、気まぐれに選んだ女性と二人きりの時にその目盛りを徐々にあげてゆくことによって、人工的に恋愛感情をつくり出す。ここでは、恋愛からあらゆる神秘的なもの、ロマン主義的なものが差し引かれた状態がある。恋愛という感情をつくりだすために必要な様々な「確信を与える形式」が人工的に調整され、恋愛感情を成立させるフレームが人工的=主体的につくられる。しかしなぜ、そこまでして一人に人間だけを限定して愛さなければならないのか。《それはつまるところ、ドナーの大半が共通して、特定のひとりの人間をほかのだれよりも求め、関心をもっていたからにちがいない。(略)つまり、ぼくの感情はほかのだれもと同じところから発しているのであって、もうその先に、なぜと問うべきことはない。》主人公は、あらゆる本を楽しむことによって「バペルの図書館の幽霊」になってしまうことを避けたのと同じ聡明さで、あらゆる「なぜ」を追求することで自らの「生」を台無しにしてしまうことを避けるのだ。ここでは、恋愛に至るまでの過程が(つまり確信の形式の調整によるフレームの設定が)、いかに人工的、操作的であったとしても、そこに生み出される恋愛感情の生々しさそのものは(つまり確信そのものは)、リアルであり、自然の(自然と信じられている)ものと何らかわりがないことが描かれている。つまりここで顕在化されているものこそが、ただ知覚と確信とが乖離しているというだけでは見えなかった、「確信を与える形式」そのものと、それによって与えられる「確信」そのものとの、根本的な乖離であり、分裂であろう。そしてこの小説が、たんに抽象的な思考実験ではなく、読む者に強いリアルな感触を与えるとしたら、それを読む我々も既に、主人公と同種の分裂を生きているからだろうと思う。そしてさらに、この小説が興味深いのは、ただ「分裂」という事実が示されるだけでなく、分裂を生きるしかない主体の「自己への配慮」の有り様が、主人公の聡明な行動として(悲しげに)具体的に描かれているという点にある。

たった一冊の短編集を読んだだけだけど、グレッグ・イーガンの小説は物語ではないように思う。それは時間のなかで展開してゆくものではなく、一つのヴィジョンを示す一枚の(あるいは数枚の)絵のようなもので、読みすすんでゆくうちに徐々に解像度が増し、細部と細部の関係がクリアーになってゆく、という風に書かれているように思えた。だから、時間的な展開によって進行する『チェルノブイリの聖母』のような作品は、ぼくにはあまり成功しているとは思えない。グレッグ・イーガンにとって、先の見えない時間のなかで、半ば行き当たりばったりに進行するハードボイルド的な物語は向いていないのではないか。

『しあわせの理由』には主人公の4つの状態が示されている。最初は、ロイエンケファリンという物質が脳内で過剰になることで、常に「いい気分」でいるような状態。次に、そのロイエンケファリンの受容体をもつニューロンが死に絶えてしまうことで、あらゆるよろこびが失われてしまう絶望的な状態。この2つの状態はどちらも、主人公の脳の内部の異常に由来するもので、主人公をとりまく環境や状況とは無関係のものだ。(2つめの状態は、治療の失敗という現実に由来するものではあるが。)つまりこの時主人公は現実のなかにいるというよりも、夢のなかにいるのと変わらない。(病気や治療の失敗によって、夢のなかに閉じこめられている。)その後、四千人ものドナーの脳の神経接続を重ね描きした義神経を脳内に挿入することで、ありとあらゆる外部からの刺激を、選り好みも偏りもなく受容出来る状態となる。ここで初めて主人公は、過剰な光のなかで目を開く。あらゆるよろこびを満遍なく、しかも最高の精度で受け取るとこができるこの状態は、最初の「いい気分」の状態とははっきりと異なる。最初の「いい気分」は夢や酩酊のようなものだが、後の「よろこぴ」は外部からの現実的な刺激に由来する。そして最後に示されるのが、あらゆるよろこびを満遍なく受け取ることの出来る状態から、自らの選択で意識的に「限定性」をつくりだしてゆく過程だと言える。ここで初めて主人公は、現実を受容するだけでなく、そのなかで生きることが可能になる。この最後の部分が最も重要だということは、既に書いた。