●『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画版をDVDで観たのだが、テレビシリーズの面白さがまったく生かされていなかった。SFXが豪華になったり、エイリアンやロボットの造形が精密になったり、戦闘シーンが派手になったりすることは、この「お話」の面白さとはほとんど関係がない。映画はどうしても短い時間に圧縮するから、時間を充実させようとしてしまうのだけど、この極めてダウナー系のお話を充実させてしまったら、その面白さはほとんど消えてしまう。映画でやるとしたら、むしろテレビシリーズよりも、よりチープで、よりダラダラと、くらいでちょうど良いのではないだろうか。(以下、ネタバレ)
●いきなりくだらない理由で地球が爆破されてしまうし、宇宙の存在の意味が「42」だったり、地球はネズミによってつくられたコンピューターで、人間はその回路の一部でしかなかったり、地球というコンピューターを使って追求されている「究極の問い」が、たんにネズミが出演するトーク番組のネタにするためのものだったりと、このお話では、あらゆる「至高の価値」が簡単におとしめられる。ロマンチック・アイロニーでは、あらゆる価値をおとしめることによって「私」というものの価値が確保されるのだが、ここでは「私」は、故郷を失って銀河を塵のように漂うヒッチハイカーでしかなく、「私」の価値こそが真っ先におとしめられている。あらゆる意味も保証も失って、全くの未知の世界へ唐突に放り出され、自らの力など何の役にもたたずただ偶然に全てを任せて受動的に生きるしかないような世界で、それでも主人公は全くの空虚な形式でしかない「自分のスタイル」に固執し、それを生の支えとする。(いつもガウンにパジャマ姿で、どこでも紅茶を要求し、つまらないジョークをとばして場をやり過ごす。)「私」を含めたあらゆる価値をシニカルにおとしめることで、どんなことが起きても感情の「低値安定」を維持し、そこで「空虚な形式」に固執し、それによって先への希望が全くない状況を生きる(ただやり過ごす)こと。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公デントを見る我々は、そのような彼に滑稽さを感じて笑いつつ、しかし同時に、苦々しい思いとともに、切実に共感せざるを得ない。先進国と言われる地域に住む、ある一定以上の年齢の者ならば、誰でもが幾分かはアーサー・デントであることから逃れられないからだ。ひねり過ぎで笑えない(いかにも「これはジョークですよ」と言わんばかりの)ジョーグばかりで出来ている、うんざりするほどシニカルな、テレビシリーズの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の面白さは、ほとんどそこにしかない。徹底して状況に翻弄されつつも空虚な形式に固執し、ひょうひょうと生き延びているダントや、憂鬱症で常に「死にたい」という気持ちにつきまとわれてる鬱陶しいロボット、マーヴィンは、それを見ている「私」を戯画化した姿なのだ。
テレビシリーズの最も魅力的な部分、デントのだらだらした駄目さかげん、意味を失ってただ繰り返されるのみの空虚な形式、ロボットの鬱陶しさ(これは「私」が「私の自意識」に感じている鬱陶しさそのものだろう)、あらゆる価値がおとしめられ希望が失われた世界でも何故か(形としてだけ?)存続しているデントと友人のフォードとの友愛のようなもの、などが、映画版では充分に引き出され、展開されていないか、または、全くみられなくて、ただ、「あらすじ」が同じというだけのものだ。この映画で信じ難く駄目のなのは、最後に、あろうことかデントが恋愛による「ボジティブなもの」を信じはじめたりしちゃっていて、これから未知の世界への冒険へと二人で踏み出そう、みたいなポジティブな終わり方になってしまっているところだ。それをやりたいのならば「全く別の物語」を用意すべきで、それは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界とは相容れないもの(このようなポジティブさは、このお話の世界観からみれば欺瞞以外のなにものでもない)で、それが全てを台無しにしてしまう。(何故、トリリアンのキャラクターがテレビシリーズと大きく変えてあるのだろうと不思議に思って観ていたのだが、そうやって「きれいに」終わらせるためだったのか、と、がっかりした。)
●もし、続編の『宇宙の果てのレストラン』が映画化されるとしたら、監督は是非、ジム・ジャームッシュでお願いしたい。
●相も変わらず、樫村晴香からの引用をひとつ。
《じっさい真の倫理性とは、一つの法や形式を、妥協や小心さ以外の理由によって受け入れることであり、形式とはそれ以外のすべてのものと共振してやることにより、それらを忘却させてやる力のことであるとすれば、自らにとって異質なものを、自分自身で与えてやらねばならなくなった孤独な振動は、それ自身によってそれ自身を忘れ去る、樹々の緑の翳りの深みへと近づいてゆくことになる。これはとりわけカント以降、作品における崇高さについてまわる、いくつもの逆説の一つである。》(「嘘の力と力の嘘」)