●『クラウドアトラス』をDVDで観た。おそろしく空虚な大作という感じがした。面白いところが一つもない(一番面白いのがエンドクレジットだった)。ただ逆に、これだけ内容が空っぽでも、お金をかけて豪華な絵をつくり、六つの(一つ一つとしてはまったく退屈な)お話を意味ありげに技巧的に関係づけてやるだけで、三時間ちかくの時間をなんとなく「見せて」はしまえるものなのだなあとも思った。この点はすこし考える価値があることかもしれない。
三島の『豊穣の海』とかが容易に連想される、輪廻転生、万物照応みたいな話なのだけど、もしこれが六話からなるオムニバスという形式だったら、退屈でとても最後までは観てはいられなかったと思う。それを、六つの話を混ぜて進行することで、話法として一定の複雑さをつくり、話法の複雑さが内容の空虚さ(すべて「どこかでみたようなもの」ばかり)をある程度補てんするというか、話法のちょっとした複雑さに対する緊張(お話の展開に置いていかれないようにする心構え)によって注意の集中を維持させつつ、万物照応の「照応」の部分を、(お話を混ぜることで)時間的な近傍に配置して、説明的に分かり易くする。
軽い分かりにくさで人の集中を維持させ、しかしそれは実は内容を分かり易くする配置でもあるというのは、確かに上手いやり方ではあると思う。複雑な一つの物語を語るよりも、単純な六つの物語を複雑に絡めて語る方が、(それぞれにタグがついているようなものなので)もしかしたら頭のなかで整理し易くて、人はついてゆき易いのかもしれないと思った。
とはいえ、それでともかく三時間ついていったとして、その後には何も残らない感じ。「輪廻転生、万物照応がテーマだったのだな」と言葉によって理解はするけど、それが深いところにしみじみ響くということはなかった(万物照応という主題を考えれば、すべてのお話があまりに紋切り型---どこかでみたようなものであまりに工夫がない---であることは、もしかしたら意図的なのでは……、とも思ってしまうのだけど)。
それぞれ個別に自律した複数の話を併置することで、その間に複雑な対応関係を生じさせるというやり方は、おそらく二十世紀初頭の前衛小説によってあみ出されたものだと思う。そのような技法は、映画では群像劇という形になって九十年代はじめ頃にやけに流行ったように思う。しかしそれは、『パルプフィクション』という、そのような形式に対する悪意に満ちた冗談のような作品で打ち止めになった感もある。『クラウドアトラス』の語りは、『パルプフィクション』から毒気のすべてを抜いたような感じだと思った。ウォシャウスキー兄弟は、少なくとも『マトリックス』では (いい意味でも悪い意味でも)アート系の人だと思ったのだけど、アートっぽさというか、洒落っ気や毒気やケレンやアクみたいな尖がったところがすべて洗い流されて、無色で何の特徴もない感じになってしまっているように感じた。ハリウッドで生き残るというのは、そういうことなのかもしれないけど。
(現代パートで編集者のおじいさんが「ソイレントグリーンは人肉だー」と叫ぶ---それが未来パートでクローン人間を食肉処理している場面と響く---とか、そういう「映画オタク」的な趣味は随所に見せているのだけど、それも申し訳程度という感じ。未来世界のペ・ドゥナのパートなど、ペ・ドゥナが気の毒に思えるほど凡庸なイメージで、オタクだったらここが力のいれどころだろうに……、と思ってしまったりした。)
まったく面白くはないのだけど、何故か退屈はしないという不思議な感じが、ハリウッド映画ではしばしばある。この映画も、本当なら途中で飽きなければいけないのだと思う(飽きなかったのはぼくの感性の怠惰だと思う、つまらないものを惰性で観てしまうというのは最悪だ)。「飽きる力」を奪われるような何かがあるのだと思う。
●今月はART TRACE方面がかなりすごいことになっている。


「組立」イベント
http://kumitate.org/index.html


「ブラック・マウンテン・カレッジ再考」
http://www.arttrace.org/event/blackmountain.htm


益永梢子展・高木秀典展
http://www.gallery.arttrace.org/current/