●『南極点のピアピア動画』(野尻抱介)。これは面白かった。こういう形の小説があり得るのか、SFってこういうことなのか、と教えてもらった感じ。なによりいいのは、ネガティブなことを一切書かないで作品を成立させているところ。ぼくには技術的なことの細かい部分はよく分からないけど、本当にそんなに「テクノロジーのオープンソース化(という言い方でいいのか?)万歳!」で大丈夫なのかというと、きっと現実的な問題はいろいろあるのだろうとは思うけど(技術的なこととは別だけど、コンビニのブラックな側面はほぼ---微妙には触れられているのだけど---スルーとか)、でもこれはフィクションなのだから、あるもののポジティブな可能性だけをとことん追求してみたらどうなるのか、という思考実験があってもいいのではないかと思う。
●細部のリアルな具体性(あくまで「リアルに思える」ということだけど)と、その具体性をバネにして起こる飛躍のとんでもなさ。作品の運動性というのは、おそらくそういうものによって生まれる。そういう意味で、この作品は活きのいい魚のようにピチピチと飛び跳ねている。どっちに、どれくらい跳ねるのか予想がつかない。作品の活きのいい運動性こそが、内容のポジティブさを支え、ポジティブであることをリアルにしていると思う。
●ピアピア動画というのはニコニコ動画のことで、この小説に出てくる「小隅レイ」とは「初音ミク」のこと。この小説は、もしニコニコ動画と初音ミクのもつ潜在的な可能性が最大限に発揮されたとしたらどのようなことが考えられるのか、という思考実験と言えるのではないか。というか、それらはあくまで媒介であって、重要なのはテクノロジーのオープンソース化のもつ可能性ということだと言うべきか。その可能性を、(細部の具体性を失わないままで)どこまで妄想的に拡大して考えられるか、ということが試みられていると思う。
現実問題として、何かの持ち得る潜在的な可能性が完全に実現されることはありえないだろう。むしろネガティブな面が強く出ることも多いだろう。だからそれは現実とはあまり似ていないのかもしれない。しかしだからこそ、それがフィクションとして追及される意味があるのではないか。だからこれは、(技術がすべてを解決してくれる、みたいな)イケイケの楽観主義とはまったく異なるように思われる。
●今日、ディストピアを描くのは容易であり、そしておそらくその方が人の心をひきつけ易いのではないかと思う(「○○」という作品は××という出来事を予言していた、あるいは警鐘を鳴らしている、みたいな安易な言説によって称揚されやすいし)。でも、そっちにはいかないという矜持のようなものが感じられる気がする(いや、他の作品を知らないので分からないけど)。
●この小説は一方でテクノロジーのオープンソース化についての話であるのと同時に、やはり小隅レイについての、つまりキャラクターというものについての話でもある。小説の前半では、キャラクターはあくまで集合知のようなものを収束させるためのハブ的な存在なのだけど、後半になってその役割を増大させる。バラバラの状態に散らばっている無数の人たちの技術や力がキャラクターによって集結して、そこで新たな何かが生まれるというところから、キャラクター自身がネットワークによって拡散し、増殖してゆくという逆向きの流れが描かれる。つまり、キャラクターはイメージの同一性(小隅レイという固有性)によってネットワークの結節点になり、同時に、イメージの複製可能性によって増殖、拡散してネットワークを拡張するものにもなる。
(たんなるキャラクターではなくてボーカロイドというところも重要なのだろう。例えば、アニメやゲームのキャラを使って二次創作するということと、自分のオリジナル曲をボーカロイドに歌ってもらうということとはやはり微妙に違っていて、その違いも重要なのだろう。ただほくは、そこらへんのことに詳しくないので細かいニュアンスまでは分からない)
●この時、結節点でもあり拡散するもの(一であり、同時に多であるもの)であるキャラクターが架空の存在であること、つまり、固有名(一)でありながら特定の誰かではない(多)ことが、とても重要なこととなる。
≪人間じゃないものが人気者になると、みんな幸せになる、ってのが、小隅レイのヒットでわかったことなんだ≫
≪レイを使えば、それまで聴いてもらえなかった曲が聴いてもらえる。見てもらえなかったイラストが見てもらえる。レイの人気をみんなが共有できるわけさ。自分がヒット曲を出せば、レイの人気に貢献するから、みんな喜ぶ。≫
●ただここで、キャラクター自身が自分を再生産するという展開は、キャラクターの増殖性という主題というだけでなく、技術が技術自身によって再生され、また更新されてゆくということの比喩的な表現でもあり、ここでまたテクノロジーについての主題に戻ってくるのだと思う。
ロボットが、自力で自分自身を再生産し、かつアップデートしてゆくことが可能であれば、これは人工物(人間によって製作されたもの)ではない、それ自身として自律した存在となり、自律した知性となる。このような人工物の自己組織化を実現することが、作中で描かれるピアピア工場の理想であり理念であった(とはいえ、作中の工場がそれを簡単に実現させてしまうのでは、おそらく現時点での技術的なレベルでのリアリティとしてきっと無理があるのだろうから、それは宇宙から来た知性によって実現されることになるのだけど)。
この時はじめて人間は、人間以外の、根本的に異なる知性から見られ、判断される対象となる。そのような他者からの視線を意識することによって、人間ははじめて倫理的に振る舞うことが出来るようになるのではないか、というのがこの小説の結末となっていると思う。
●面白かったのだけど、技術的な語彙でよく分からないところとか、言葉だけでは視覚的にイメージし切れないところなどがけっこうあって(いや、自分で調べればいいのだけど)、これをアニメでがっつりとやってくれないだろうかなどと思ったりもした。『ロボティクスノーツ』とかも、こういう方向でいけば面白くなったのかもしれないとも思った。