●抽象表現主義の作品の一番あやういところは、立派に見え過ぎてしまうところではないかと思う(例えば、シュポール/シュルファスの作品の見栄えのしょぼさに比べて)。単純に大きいし。思わず、安易に崇高とか神秘とか言いたくなってしまったりする。でも、抽象表現主義は、おそらくほとんど崇高とは関係がない。
抽象表現主義の特異性は、新世界的な人工性、抽象性にあるように思う。例えば、大衆音楽として発祥したジャズが、いわゆる正統的な西洋音楽から切り離されていたがゆえに、かえって(モダンジャズとして)モダニズムを凝縮的に体現してしまった、というような大地−根拠(西欧、そしてアフリカ)から「切り離された」抽象性。抽象表現主義の抽象性や形式性は、たぶん西部劇の抽象性、形式性に似ている。モニュメントバレーの風景が崇高だと言えば崇高と言えるかもしれないという程度には抽象表現主義も崇高とかかわるかもしれないけど、それは大地−自然であるよりは風景であり、広大だが、人工的、抽象的な空間の拡がりであり、どでかい起伏でしかないようなものだ。つまり、根拠や歴史から切り離されたやたらとでかいひろがり、中身の何もない大きな空間だけがあるという、条件としてあらかじめ与えられている(強いられている)抽象性、形式性がアメリカのフォーマリスムの元にあるのではないか(勿論、それは移民たちにとってそうであるということで、予めそこにいたネイティブ・アメリカンにとってはそうではないはずで、つまりはその抽象性は侵略によって生まれたものなのだが)。
つまり、物質的に豊かになるまで(ポップアート以前)は、アメリカには、抽象的な形式以外には、描くに値するものが何もなかった、ということではないか。メディウム・スベシフィックとしての絵画自身の形式の純粋化という貧しさは、その(歴史や根拠の)何もない空間の貧しさと対応しているのではないか(ここでの「貧しさ」は、今流行りの「貧困」というのとはまったく別のことだ、あえて言えば、「貧困(をめぐる言説)が流行ってしまうような貧しさ」という時の「貧しさ」だ)。そして、その貧しさこそがアメリカの最大の可能性だったのではないか(そしてその可能性としての「貧しさ」は、実はコンセプチュアル・アートにこそ引き継がれた?、というのが『組立』での佐藤雄一説だと思う)。
例えば、メカスの『リトアニアへの旅への追憶』は、五十年代の終わりのある日のピクニックの映像から始まる。それは、ナチに故郷を追われ、ウィーンに逃げようとするが途中で捕まって収容所に入れられ、そこから脱出して戦争が終わるまでドイツの外れに潜伏し、その後アメリカに流れ着いた日から十年ちかく過ぎた頃であり、その日にメカスははじめてアメリカを「自分の居場所」だと感じることが出来たと語っている。それに続いて、ブルックリンにたどり着いたばかりの移民たちを映し出す。まだ慣れずに戸惑っている彼らにとっても、自分と同じように、いずれアメリカが自らの居場所となるだろうという、そのよう眼差しが感じられる。映画は、そのようなアメリカに足場を確保した後に、故郷セミニシュケイのうつくしい風景へと繋がるのだ。そしてその後、かつてたどり着けなかったウィーンで友人たちと会う場面になる。自分にとって故郷が永遠に失われたもの(であるがゆえに限りなく美しい)のに比べ、ウィーンの友人たちは、自分自身をはぐくんだその土地のなかでのびのびと生活している。そのことを讃えつつ、羨望する。
メカスにとってアメリカは、誰にとっても慣れぬ土地であるからこそ、すべての人にとって(故郷とはなり得なくとも)居場所−立ち位置となり得るような、「純粋な(ゆえにそれ自身としては空虚な)形式の可能性」の実験場としてあったということではないか。アメリカ型フォーマリスムのフォームというのは、少なくとも可能性としては、そのような「空」の場所を示すものとしてあったのではないか(勿論、それはそれこそ抽象的な次元の話であって、現実はそんな単純ではないとしても、例えば、グリーンバーグの言説は偉大なアメリカ絵画を称揚するというナショナリスティックな効果をもったのだし)。そのような意味で『リトアニアへの旅への追憶』はアメリカ映画なのだ。それは、可能性としてのアメリカという抽象的な(空虚な)形式によって可能になった映画という意味で。
●とはいえ、現在からみれば、そのような、土壌−歴史からの切り離しとしての形式化−空化こそが、金融資本主義のようなもの(生産や労働そのものと「お金」との繋がりを根本的に切り離す傾向)の過剰すぎる発展にとって徹底的に都合の良よい土壌となった、ということにもなるのだろうけど。