08/02/08

●昨日、今日とつくっていた作品はF40号(100.0×80.3センチ)というサイズで、特に大きいサイズとは言えないのだが、これはあくまで今のぼくの感覚でしかないのだけど、キャンバスの規格サイズだと、F30号(91.0×72.7センチ)くらいまでは小品という感じなのだが、F40号となると、フレーム内の空間の大きさの捉え方、その中で可能な動きの組織の仕方、あるいはその大きさを「もたせる」ためにするべきこと、等の質が大きくかわってくる。
今やっている線だけの仕事は、最初は便箋のサイズではじめたもので、これは、どこにでも持ち歩けて、気が向いた時にいつでも描けるようにと思った(コクヨの便箋に筆ペンで描いていた)こともあるのだが、先ず最初は、線だけで(自分がやろうとしていることで)はその大きさくらいしか「もたせる」ことが出来ないと思ったからだった。それが、F6(41.0×31.8センチ)やF8(45.5×38.0センチ)くらいのスケッチブックへと発展していって、ようやくF40号くらいのタブローにまで辿り着いた。やっていること自体はほとんどかわらないし、人がみたら、スケッチブックでやっていた作品を拡大コピーしたのとどこが違うの?、と思うかも知れないけど、線を引いている時の身体の使い方や、空間の意識の仕方(線を引くということは、その引かれた線以外の場所の全てのスペースを意識するということなのだ)が、画面のサイズが大きくなると随分と違う。意識すること(あるいは、無意識のうちに捉えるべきこと)の量が格段に増えるのと同時に、描く身体が描きながら感じている空間の気持ち良さも随分とちがう。気持ちが良いというのは、ああも動けるし、こうも動けるという、潜在的な動きの可能性(自由度)が大きいということで、それは不安でもあって、その不安を気持ちいいと感じるには、ある程度の「出来る」という自信が必要なのだ。
ぼくは以前は、かなりサイズの大きい作品をつくっていた。学生の頃は、体育館のように大きな大学のアトリエが使えたこともあるが、卒業してからも、三十代はじめくらいまでは狭いアトリエで制作できる最大のサイズ(だいたいF150号、227.3×181.8センチくらい)の作品を普通につくっていた。それはぼくが、絵を描きはじめる最初に、アメリカの抽象表現主義(アメリカ型フォーマリスム絵画)の強い影響下にあったからなのだけど、それに疑問を感じ始めた頃から、作品のサイズは徐々に小さくなっていった。
クールベ以降の狭義の近代絵画はそもそも、宮廷や教会に飾られるような、バカでかい歴史画や宗教画のようなスペクタクル的空間に対する批判からはじまったという側面もある。近代絵画が実現した「質」は、バカでかいサイズを拒否したことによって生まれたとも言える。実際、モネのようなどこまでも拡張してゆくフレームを例外とすれば、ゴッホセザンヌも、そんなに極端に大きなサイズの絵はない。(セザンヌの水浴図はかなり大きいけど。)それがかわったのはマティスによる。マティスは、それまでの絵画がもっていたフレーム内の空間の扱い方とは、まったくことなるスペースの使い方をするようになる。描かれたもの(絵画として表象された空間)の大きさだけでなく、たんに(リテラルな)そのものとしてのフレームの「大きさ」を、絵画の空間として利用するやり方を発明した。だからマティスの画面の大きさは、それ以前の歴史画的スペクタクルの大きさとは根本的に質が違う。
フレーム(あるいは色面)そのもののリテラルな大きさを、絵画の(表現の)「内容」として利用するという意味で、抽象表現主義マティスに多くを負っている。しかしマティスにおいては、あくまで、描かれることで発生する絵画的な空間と、キャンバスそのもののもつリテラルな大きさとが、時に絡み合い、ときに齟齬をきたす、というような複雑な関係をもっていて、その複雑さそのものが面白い。つまり、絵画的空間は、あくまで「描かれる」ことによって生まれて来るものなのだ。しかし、抽象表現主義は、フレームそのもののリテラルな大きさをそのまま「表現」とするという方向に、安易にはしり過ぎたという側面がある(特に、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコ、彼ら自身というより、彼らに影響を受けたその後のミニマリズムの画家たち、結局彼らは、「描く」のが下手だったから、そういう方向に行かざるを得なかったのだと思う)。ぼくは、そのことが抽象表現主義(モダニズム的フォーマリスム絵画)の衰退の大きな原因であると思う。つまり、絵画はやはり「描く」ことで生まれる空間が問題にならなければ面白くないのだ。このことを意識した時から、ぼくの絵画への姿勢は大きく変化し、ぼくの作品は小さくなってゆくのだが。(現在でも、壁一面を色面で埋めるようなタイプの巨大な絵画-インスタレーションがあるけど、それはだいたい、抽象表現主義のそのような側面を安易に「効果」として利用しただけの、ネガティブな意味でのシアトリカルなもので、まったく退屈な作品であることがほとんどだ。)
絵画の空間(表現)を、画面のリテラルな大きさに「依存する」のではなく(そして、安易なスペクタクルに依るのでもなく)、描かれることで発生した空間と、リテラルな大きさとの絡み合いとして成立させようとするのならば、画面のサイズをそうそう簡単には大きくすることは出来ない。自分自身の画家としての「描く」技倆を磨き、その技倆への自信に応じて、徐々に大きくしてゆくしかないのだと思う。(勿論、作品が大きければ良いなどという単純なことではないし、大きい作品が難しく、小さい作品はそうでもない、などとは簡単には言えないのは、当然のことだ。)