●竹橋にベーコン展を観に行った。ぼくは今までベーコンを面白いと思ったことはなかったし、だから特に興味もなかったのだけど、この展示を観てかなり認識がかわった。なんというか、普通にいい絵だった。図版や印刷物では決してわからないタイプの、油絵の具によってしか表現できないことをしている、モダニズム絵画の達成を普通にふまえた、きわめてオーソドックスな絵。
会場に足を踏み入れてまず思った雑な第一印象をそのまま書けば、「なんか、すげえ抽象表現主義なんだけど」という感じ。ベーコンの絵から見えてくるものは、ゴーキーであり、ルイスであり、ニューマンであり、フランケンサーラーであり、中村一美であり、菅原清美であり、ディーベンコーンなのだった。すごく、オーソドックスで、理知的で、形式主義的な絵なんじゃん、と(少なくても根底にあるものは)。ぼくはなにも、意図的に(常識に逆らって)突飛な、ひねくれたことを言おうとしているのではなくて、普通に観ればそう見えると思うのだけど。久しぶりに、絵らしい絵をたっぷり観たという感じ。
考えてみればベーコンは抽象表現主義の画家たちとほぼ同世代の人なのだから、その影響がある(影響ではなく同時代性なのかもしれないけど)のは当然と言えば当然だし、逆にだからこそ、アーティストの発する「言葉」としては、(自らのキャラをたてるために)アメリカ型の形式主義的な言説とは「別のこと(別の側面)」を強調しなければならなかったということもあるかもしれない。それでも、作品そのものを観れば、まったく同じとは言わないけど、とても近いところにあることは明らかだと思う。近いという言い方が適当でないとすれば、同じ前提を共有している。逆に言えば、ベーコンの絵は、アーティスト自身が言っているほどにはアナーキーなものではない(ベーコンの作品をよりよく観るためには、ベーコン自身の言葉は話半分というか、三分の一くらいだと思って聞いた方がいいと思った)。
●画家としてのベーコンのもっとも優れたところは、暗い色をツンとして澄んだ響きとして響かせることができる点にあるように感じた。ほとんど黒に近い青、紫、緑が、暗さのなかから霧のように浮かび上がってくる時、それがすこしも茫洋とした調子にならずに、しゃきっとして張りがあり、濁りがなく、透明に響いているからこそ、そこに浮かび上がってくる人体や頭部がはっきりとした形をもたなくても、曖昧さの印象を感じさせないのだと思う。ここの部分の精度がちょっとでも甘くなると、ぼくにとっては興味を感じられない「いかにもベーコン的な絵」になる(そういう作品もあった)。
このような、微かではあるけど濁りのない色味を持った透明な暗さは、ぼくの知る限りでは油絵の具によってしか表現できないものだ(いや、唯一の例外としてモーリス・ルイスがアクリル絵の具で実現していると思うけど)。そして、このような暗さを表現できる画家は、マネ、マティス、ルイス、ある時期(期間限定!)の中村一美など、ぼくの知る限りでは数えるほどしかいない。ぼくのなかで、そこに新たにベーコンが加わった。
この点でぼくが特にすばらしいと思ったのは「肖像のための習作Ⅳ」、「教皇のための習作Ⅵ」、「座像」だった(しかし図録で観ると見る影もない…、ほんとに絵は実物を見ないと分からない)。暗さの輝きとはちょっと違うけど、「屈む裸体のための習作」とかもすごくいい絵だった。これらの作品は五十年代から六十年代はじめくらいに制作されたもので、時代的にも抽象表現主義と同時代といえる(「教皇のための習作Ⅵ」など、ゴーキーの作品だと言われれば信じてしまいそうだ)。それに比べると、七十年代、八十年代につくられた作品は、絵としてはかなり弛緩し、後退しているようにぼくには思われた(色面がぬるいし、背景と形態=人体の関係――背景からの形態の現れ――が単調だ)。ぼくにはこれらは、ベーコンの作品というより、「ベーコン風の絵」に見えてしまった。ぼくが今までベーコンに興味がなかったのは、おそらく七十年代以降、あるいは六十年代後半以降の作品しか観てなかったからなのだと思う。これらの作品にも、おもしろいところがまったくないわけではないけど(たとえば、ベーコン論を書くのならば、こっちの作品の方が分析しやすいのかもしれない)、五十年代、六十年代の作品のようなスカンと澄んだ精度はなく、よって、人体のイメージの現れの強さもなく、自己模倣のように感じられてしまう(その分、分かり易いかもしれないけど)。でも、改めて図録で観てみるとあまりかわらないようにも見えてしまう。
●ベーコンと抽象表現主義の色面的な絵画にはあきらかに共有された基盤があるように思うのだけど、しかし、もちろんまったく同じだと言いたいのではない。まず第一にベーコンには人体のイメージが導入されている。これはとても大きな違いだ。そして第二に、色面や線(ジップ)もまた抽象表現主義的な平面性とはことなる(そして、フラットベッド的な空間ともことなる)機能を担っている。この色面や線は、方向を少しずつずらしながら重なることで積極的にイリュージョンを作り出し、具象的(再現的)な空間とは違ったヴァーチャルな空間をたちあげようとしているように思われた。ぼくはこの後者がとても興味深く感じられた。
(おそらくそのような意味では、抽象表現主義よりも、セザンヌやマティスに近いのだと思う。やり方は全然違うとしても。)
たとえば「肖像のための習作Ⅳ」では、抽象表現主義的な暗い紫の色面のひろがりと、そこから浮かび上がる人体(この、人体の「現れ方」そのものは、例えばニューマンの絵のジップの「現れ方」とそんなに遠くないと思った)、そしてそれらと別の方向から(斜めに)交錯するような金色の線(それは、人体を、色面を、閉じこめ、切り裂くフレームであり、しかし同時に人体を支えるイスであり、色面を活性化するジップでもある)という三つの異なる基底面(あるいは力線)があり、その角度のずれた重なりと結びつきが、いわゆる三次元的な空間とは別種の空間を構成しているように思われた。今日、ベーコンに興味をもちはじめたばかりなので、この点については今後もっとつっこんで考えてみたいと思った。
●思ったよりも規模の小さい展示だった。でも、ベーコンはおもしろいけどいわば「一芸名人」みたいな感じもあって、どの時代、どの作品でも、やっていることは基本的にそんなに違っていないから、あまりたくさん一度に観ると飽きがきてしまうかもしれないという気もしたので、このくらいの規模が、がっつりと、観る側としても弛緩しないで観るのにはちょうどよいのではないかとも思った。