08/03/06

●制作。従来の作品の延長としての制作と、いきなりはじまってしまったマティス風の絵(08/02/19の日記参照)の制作とが、切り離されたまま、並行してつづいている。マティス風の絵の方は、良いのか悪いのか自分でもよく分からなくなってきている。手と頭がバラバラで、自分が何をやりたいのかよく分からないまま、手が勝手に先行して、絵が動いてゆく。一体どこに行こうとしているのか。手の制御を緩め過ぎなのだろうか。ただ、今までとは違う感じで、ダイナミックに空間を動かせているような感触はある。でも、その結果として出て来ている状態をどう判断すればよいのかよく分からない。判断を保留したままで、良いのか悪いのかよく分からない作品がいくつか出来てゆく。
とにかくぼくの手は、今すごく素朴に絵を描きたがっているようなのだ。油絵の具に手を出したことで、何か抑圧が解けてしまったかのようだ。冷静に考えれば、こういう時はだいたいドツボにハマっていることが多いわけで、すごくヤバいところに入り込んでしまったのかもしれないという気もする。とにかく、マティス風の絵の方は、当分は形にはならないであろうことを覚悟して、手探りでつづけてゆく。
一方、キャンバスに線だけで描く仕事の方は、完成度が高くなってきているように思われる。この仕事の元になるドローイングを、これもいきなり始めてしまったのは、2年半か3年くらい前で、今ようやく、ああ、これがやりたかったのか、と自分のやりたかったことがおぼろげに見えてきたみたいだ。もし、ジャクソン・ポロック先生の幽霊と話す機会がもてたならば、これこそがオールオーバー以降(1950年以降)の、晩年の私がやりたくて出来なかったことだ、と言って下さるに違いない、と、大口をたたいてみる。
というか、ぼくこそがポロックの幽霊だ、と更なる大口をたたきたくなる。ただ、この仕事にも、マティスの幽霊の関与も大きいし、不可欠なのだが。ちなみに、44歳で亡くなったポロックが死んだのが56年で、マティスはその二年前の54年、84歳まで生きていた。(マティスの後に抽象表現主義がくるのではなく、マティスと抽象表現主義は同時代なのだ。)
あと40年とは言わないが、あと20年長くポロックが生きていればなあ、と思う。確かに1950年のポロックは素晴らしいのだが、オールオーバーの形式の完成によってポロックの可能性が尽くされたわけでは決してなく、むしろそれ以降、一般的には「ユングへの回帰」などと言われ、弛緩していると言われてしまうような反グリーンバーグ的な作品にこそ、大きな可能性が(ポロックの可能性の中心が)秘められていたのだと思う。ただ、その可能性を実現するためには、おそらくポロックはもう一度改めて絵画を勉強し直す必要があっただろう(マティスの幽霊を召還する必要があった)。そのためにはやはり、20年くらいの時間は必要なのではないか。ポロックの名声からすれば、あせらなくても20年くらいなら余裕でその名声だけでもで生きていけたと思うのだけど、当時のモダニズムの、常に「進化(新しさ)」を要求する進化主義的な空気が、それを許さなかったのだろうか。ポロックはアル中になり、飲酒運転で事故って死んでしまう。