●気軽に散歩に行けない季節になった。早起きして、午前中原稿を書いて、ちょっと昼寝してから、午後、二時間くらい散歩したのだけど、散歩中はそれほどでもなかったものの、帰ってきてから、目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし、ということになった。二、三日くらい前までは、散歩してても、多少鼻がぐずぐずするものの、まだ大丈夫という感じだったのだが、とうとう「きた」のだった。ぼくは、杉よりも檜に反応するみたいなので、今のところまだ、そんなに悲惨なことにはなっていないのだけど、さすがに顔を長時間外気に晒すのはきつくなってきた。といって、マスクにゴーグルで散歩するというのも、興ざめだし。
●長めの原稿(といっても6、70枚とか、そんなものだけど)を書く時、書き出しは、これから長く書いてゆくための最初の強いアタックが必要なため、どうしても気負った鬱陶しい感じ、あるいは気持ちを押し付けるような独善的な感じになる。長めの原稿の終わりの方は、とりあえずはやく決着をつけたいという気持ちで、駆け足というか、拙速なものになりやすい。終わりの方の駆け足は、もっとゆっくり、もっとためて、と意識的にタメをつくり、はやく決着したいという気持ちを抑制しつつ、書き続ける時間に留まる(書き終えるのを先延ばしにする)必要があるが、書き出しの勢いや鬱陶しさは、その先を書き続けるために、ある程度はどうしても必要なもので、そのまま突っ走って、一通り最後まで辿り着いてから、はじめに戻って書き直すか、不必要ならばっさり切ってしまえばいいのかもしれない。(実は、切ってしまうようなところにこそ「気持ち」が一番入っていたりするのだけど、でもその「気持ち」は、後の論の展開のなかに染み込んでいるはずで、というか、そうでなければ「ダメな文章」なわけで、だから「気持ち」の部分は切っちゃってもきっと大丈夫なのだろう。)
●その日暮らしの自転車操業なので、原稿を書いても、掲載保留というのがいくつかつづくと、見通しがひっくりかえり、簡単に経済的に行き詰まってしまう。まあ、でもなんとかなるでしょうと楽天的に構えて、次の原稿を勝手に書き出してしまうしかないのだった。
●先日、用事があってお会いした磯崎憲一郎さんは、一年で100枚書くのが限度だと言っていた。以前、青木淳悟担当の編集者から、青木さんは一ヶ月かかって3枚とかいうことも普通にある、ということを聞いた。やっぱ、あれだけの文章を書くということは、そういうことなのだなあと、「新潮」の保坂和志・岡田利規対談を読みながら思った。