08/03/08

●ぼくは昨日の日記で、散歩の後、《目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし》という状態になったことの原因を、何の疑いも躊躇もなく「花粉のせいだ」と判断している。でも、その判断の根拠はと言えば、(天気予報なども含めて)「みんながそう言っているから」という以上のことはない。これはけっこう不思議なことだ。
市販の花粉症対策の薬を使えばある程度は効く、というのがもう一つの根拠となるかもしれないけど、医者に行って花粉症だと診断されたというわけでもない。ぼくは小さい頃から、やけに鼻がぐずぐずしたり、鼻詰まりが酷かったりする時期があって、たんに鼻が悪い子供だと思われていて、耳鼻科に通っていたこともあったけど、原因が何なのかもよく分からないまま、通院する度に鼻を洗浄されて、何の薬かよく分からない薬をもらって、それでも別に良くなることもないのでそのうち医者にいかなくなってしまう、ということを繰り返した。(鼻が悪いのは、心持ちがよくないせいだ、ともよく言われた。)それがいつの間にか、花粉症という症状が人に広く知られるようになり、私は花粉症だという人が増え、それでなんとなく自分も花粉症なのだと考えればいろいろつじつまがあうので、まあ花粉症なのだろうというところで落ち着いた。
勿論、花粉症というものには科学的な根拠があるのだろうけど、ぼくが、自分は花粉症で、この症状は花粉によるものだと「信じている」という時の、その根拠は別に科学的なものではなく、やはり、みんながそうだと言っていて、そうだということになっているから、きっとそうなのだろう、ということでしかない。
僕は別に、すべての根拠を疑わなければならない、自分で検証しなければならない、ということを言いたいのではない。その逆で、どうせそんなこと出来ないのだから、得意なことや好きなことならともかく、それ以外は、人に預けることの出来るものは預けちゃって全然オーケーなのではないか、とさえ思っている。それでつじつまが合い、それでことがうまく運ぶのなら、別にそれでよい。ただその時、その判断は「人に預けちゃっているものなのだ」ということくらいは、意識しておいた方がいいとは思うけど。
でも、ここで、ぼく自身の身体に起きた、ぼく自身の閉ざされた感覚でしかない《目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし》という苦痛が、花粉症という言葉の一般化、花粉症に対する認識のひろがりによって、なんとなく外側から形を与えられ、位置を与えられて、納まりどころを得るというのか、正当性を得られるかのように思ってしまうのは、何とも不思議なのだった。たんに鼻の悪い子供として、鼻をぐずぐずいわせていた時よりも、今、花粉症の人として、鼻をぐずぐずさせている時の方が、(苦痛は一緒でも)どことなく堂々とぐずぐずさせているように思えてしまうことが、自分でも何か納得がいかなくて、ひっかかることではある。権力を得る(身体が権力に貫かれる)っていうのは、こういうことなんだよなあ、と。
唐突なようだけど、芸術とは、このような意味で、決して「場所を得る」ことのない経験こそが、問題にされるのだと思う。