●18日のレクチャーの準備を、ちょっとだけした。
色彩を見ることと幽霊を見ることとは、その直覚性と、再帰的な捉え直しの困難さにおいて似ている、と前に書いたけど、ちょっと違うところもある。幽霊とはイメージであり、イメージとは既に反復されたもの(既にあるものの反復)であるのだが、色彩は、イメージになる直前に留まっているような何ものかであって、それは反復であるというよりも、(同じ色彩であったとしても)その都度、「今、それを見ている」ことによってしか立ち上がってこない感覚(感触)としてある。色のイメージ(色彩の幽霊)と、今、実際に見えている色彩との違いは、歴然としたものがある。とはいえ、例えば、夢に出て来る色彩と、実際に目の前にある「もの」が発している色彩との間に、精度や強度、質において違いはあると言えるのだろうか。例えばぼくは、眼をつむっても、眼を開けて見ているのと同等の強さで色彩を見ることが出来る。でもそれは、見えてしまうのであって、意識的にその色彩を見ようとして見えるものではない。モーリス・ルイスのある作品を観て家に帰った後に、目の前に実際に作品があるのと同じ強さで、その色彩を頭のなかで(瞼の裏で)再現しようと試みても、それは出来ない。ただ、ある色彩が、眼をつむった時に、勝手に、鮮やかに浮かんできてしまうのであって、それは以前に見た何かの色彩の反復や再現であるわけではなく、あくまで(眼を閉じている)「その時に見えている(発生している)その色」なのだ。
というのならば、イメージも同じなのではないか。しかしイメージとはなにかしらの「図」であり「形態」であって、それはそれとしての再現不可能な(つまりその都度に立ち上がる)「質」をもっているのは確かだとして、同時に、何かしらの再現(反復、表象)であるという「徴」をもっている。この「徴」の有無が、図をもつ幽霊-イメージと、図をもたない(あるいは、図が不安定な)色彩との微妙な違いであるように思われる。だが、セルリアンブルーとかバーミリオンとかいった、名をもつ色彩は、既に反復される「徴」を有しているので、それは色彩そのものではなく、色彩のイメージということになる。とはいえ、絵具のメーカーによって、あるいは時にはチューブによって、同じ「セルリアンブルー」と名付けられた色にも厳密にはブレがあり、やはり色彩には図-徴(定着)から逃れる不安定な掴み難さがある。
では、色彩の記憶はどうなのか。マティスの絵を観た時の、マティスのブルーの感触は、それを後になって頭のなかだけで完璧に再現しようと思っても無理ではあるが、しかし、「ある感触」として確実に記憶には残り、それと同質の感触をもつブルーと、そうでないブルーとを見分けることは可能になる。記憶となったブルーは、既にブルーのイメージ(ブルーの幽霊)ではあるが、そのイメージ-幽霊と、今、実際に知覚されているものによってもたらされている感覚とが、何かしらの(連合)関係をもつことは可能なのかも知れない。というか、実は、今、実際に見えているブルーと、記憶のなかにあるブルーのイメージ-幽霊とは、本当は厳密に腑分けすることは出来ず、グラデーションのなかのひとつながりのものとして機能して、ある感覚を生成しているのかもしれないのだが。
というか、ぼくにとって、ブルーのイメージは、視覚的なものとして記憶されるのではなく、もっと触覚的な感触として記憶される。色を視覚的なイメージとして記憶するのではなく、触覚的なイメージに変換して記憶する。その方が、(後でそれを視覚的に再現しようとする時の)精度としても信頼できるものとなる。そういえばデュシャンは、マティスの色彩は、絵を観ている時よりも、絵の前から立ち去った後に、じわじわ効いてくる、というようなことを言っている。ということはつまり、色彩そのもの(今、現に立ち上がっている感覚そのもの)というより、その色彩によって残された痕跡としての記憶-イメージ-幽霊の方こそが重要だということなのだろうか。
という話をしても、きっと学生はポカーンとするだけだろうから、もうすこし分かり易い話をします。