08/02/09

●「線」というのは、おそらく空間のなかでの動きであり、その動きによって空間のなかで別の質をもった空間をたちあげ、動かす、ということだ。それは、線が手の動きの痕跡を残す、とかいうような単純なことではない。線がすることは、空間を仕切るという身振りであり、空間は、仕切られることによって生まれ、動き、震える。ぼくが今、線だけの仕事でやっているのはおそらく、仕切るという身振りだけで、空間の「質」をたちあげることなのだろう。
それに対して色彩は、空間をすり抜けるというか、空間に納まらない何かとしてあるように思われる。色彩は空間の質というより、触覚的な質をもたらす。密着しない触覚。それは距離をもつが、その距離は空間的には確定できない距離であるようだ。色彩が触覚的でありながら密着しない(距離をもつ)というのは、色彩が色彩同士の関係をもつ、ということでもある。色彩は、色彩同士の関係によって、新たな「質」をつくる。関係とはつまり空間のことで、だから色彩も空間をもつ。それ自体としては空間的ではない色彩が、関係によって空間を含む。
しかし、このように考えることはあやうい。絵画には、まず、線があり、色彩があり、形態があり、それらが組み合わされて何か(質)が出来上がるという考え方は、既に出来上がった絵画を前提としてなされるものだ。そうではなくて、事前にある不確定な何かが、結果として線となり、色彩となり、形態となることで、絵画(の質)が生まれるのだ。(これは一見素朴な表現主義のようだが、そうではない。)
重要なのは、事前にある不確定な何か、結果が出た後に事後的にその存在が(可能性として)確認されるしかないのだが、しかしそれは事前に「あった」のだというしかない何かが、ある閾を越えて、線となり、色彩となり、形態となって生まれ出て来る、その閾を越える動きや力の発生する場所で考えることだ。そこを外れてしまうと、面白くない。
これは、自分が作品をつくる時だけの話ではなく、他人のつくった作品を観たり読んだりする時も同じだ。「そこ」を捉えようとするのでなければ、たんに、作品を言葉でもてあそんだり、型にあてはめたり、切り刻んだりするというようなことになってしまう。
●夜中に目覚めて外をみたら、雪がきれいにつもっていた。