デ・クーニングなど

●随分と久しぶりに、デ・クーニングの画集をじっくりと眺めながら、いろいろとりとめもなく考えていた。(だから以下はとりとめのない思いつき。)ぼくにとって十代の頃にアメリカの抽象表現主義に魅了されたのが絵画にはまり込むきっかけで、特にデ・クーニングやポロックは好きだったのだけど、今改めて観てみると、どうしてもちょっと醒めた感じになってしまう。
デ・クーニングについては、絵の具の表情がとても魅力的であること(この、絵の具の表情、色彩の触覚的なあり様こそが、十代のぼくを惹き付けたのだが)を除けば、空間の構造は割合に単純で、保守的な普通の絵だったりする。一見、自由な筆致が縦横にはしっているように見えるが、見せるところと見せないところの配置というのか、目が停まるポイントの作り方と、そのポイントを繋ぎつつ視線の動きを誘導する配置が結構ミエミエで、自由そうに見える筆致とは異なり、むしろ空間的にはかなり苦しい、不自由な感じに見える。その原因はやはりフレームの問題であるように思う。一見自由そうに見える筆致(筆の動き)は、常にフレームが意識され(前提とされ)、フレームとの関係によって画面に置かれているので、単純な構成的抽象絵画のような配置からあまり外れてはいない。野方図に描いているように見えて、きちっと決めるところを決めているわけなのだが、その、決めるところの「決め方」が手堅過ぎるというか、ありふれているので、絵を観ていて、(表情が魅力的なのにも関わらず)あまりドキドキしない。
絵を描きはじめた頃、先生からよく、フレームのなかの全ての場所を完全に意識しろ、フレーム内に「穴」をつくるな、と、口を酸っぱくして言われたものだが(勿論この指摘は、初心者に対するものとしては完全に正しいのだが)、しかし、フレーム内の全ての場所を等しく意識することは、フレームの存在をあらかじめ絶対的な前提として意識させ、その内部のみで、見せる部分と視線を流させる部分との一元的な配置(か、あるいはオールオーバーな画面)をつくるという単調な(視覚的なものでしかない)構成から外へ出られなくなるということであるように思える。むしろ、画面上のあらゆる場所がそれぞれ意味の(意識の)「濃さ」が異なるようにして(ムラのある)画面をつくりつつも、一つ一つの場所を、複数の文脈が重なる結節点とするように画面をつくりあげてゆくことによって、(あらかじめ与えられている)フレームを、それほど決定的なものではなくできるのではないだろうか。このようなぼくの現在の関心からすると、抽象表現主義の絵画よりも、後期印象派の絵画の方がずっと過激で大胆なことをしているように思えるし、デ・クーニングよりも、例えばリキテンシュタインの方が画家として、(趣味としてはともかく)形式的にずっと大胆で、高度なことをしているように思う。
一般にポップ・アートにおいては、個々のイメージ(見ることの出来る形や色彩の単位)と、作品全体=フレーム(見えるイメージを「見る」ことを可能にしている場)との結びつきが弱くなっていて、つまり、イメージがフレームに依存し、拘束されている度合いがきわめて低くて(つまり、イメージそのものが独立してフレームと拮抗するかそれ以上の力をもち)、イメージが作品=フレームの外へ出ても成立する傾向が強い。(フレームが絶対的ではない。フレームを前提としたイメージの狭苦しさがない。)しかしそれは、ポップ・アートが扱っているイメージが、(作品によってはじめて可能になるような「質」をもつものではなく)あらかじめ社会的な場で生産され認知された(レディメイドな)イメージでしかないことにも依るので、その点をぼくは保留したいのだけど、しかし、ポップ・アートにおいて展開されている、イメージとフレームとの関係の様々なあり様の実験にはとても興味を感じるし、刺激もされる。(例えば、デュシャンによるレディメイドなオブジェの提示は、ポップ・アートが前提としている「レディメイドなイメージ」に亀裂を入れるためにこそ、なされている。リキテンシュタインが面白いのは、作品全体としてのイメージは、例えばコミックの一コマのような、ポップ・アート的レディメイドであっても、それを構成している個々のイメージ=見えるものの単位は、決してポップアート的なレディメイドではなく、ドットや色面、擬似的な筆致など、むしろデュシャン的なレディメイドとしてある点にあると思う。)