考えをまとめるための引用集。樫村晴香

●考えをまとめるための引用集。樫村晴香
●人間の認識が、いかに「対象関係」に依存し、束縛されているかについて。(「ドゥルーズのどこが間違っているか?」より)
《より分析的な視角から、もう少しニーチェの体験を考察しよう。そもそも科学的にみれば、同一性(異なる入力を一つの記憶内容として出力すること)とは、並列分散的な神経網の産物ゆえに、原理的には確率的‐熱力学的にしか作動せず、局所的な作動域では、常にソジー錯覚的な疑似記憶(同じ入力に異なる諸出力が応じ、逆に異質な諸入力に単一出力が応じること)が生じるはずである。程度の差こそあれ、太陽がいつもと違って異様に見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような、シュレーバーの体験は、ローカルな記憶回路ではおそらく常に生じており、それを補正‐圧縮するのは、より広域的なアルゴリズムで、それは世界への想像的な信頼‐幻想、他者への依存的な対象関係に帰属する(ないしそれと同値である)と思われる。しかし対象関係は、他方で象徴的‐イデオロギー的な価値‐目的(自我理想)に規定され、とはいえ象徴的なものを構成する言語という脳の後発的演算系は、想像的な曖昧さとは異質の分節的なものなので、その結果象徴的領域は、想像的(≒間主観的)作用・幻想に対し、「現実界と同じ側にある」(=幻想に対し仮借ないものである)というねじれが生じる。これは一般に分裂病者が、(本質的に想像的なもの‐幻想の欠損に由来する)認識‐行動上の困難を、「理性的」推論で補おうとして、ますます混乱に陥る(世界と身体の自明性が崩れる)ことに対応するが、いずれにせよ思考における過度の明晰さは、幻想と矛盾し世界を「よそよそしい」ものとし、日常的には抑圧されている世界の中の僅かな「ずれ‐亀裂」を露にし、基底的な同一律をも解体しだし、通常とは逆向きの破壊的な支持関係を発動させる。》
●その「対象関係」が、「ほぼ良い母親」によって、どのように構造化されるのか、について。(「汎資本主義と<イマジナリー/近しさ>の不在」より)
《さて、ウィニコットの理論において、真に重要なのは次の点である。幼児が幻想において不在の乳房を創造するとき、母親が乳房をさし出すことによって、幻想と外部が判別しがたい中間領域が形成されるのだが、そのとき、幼児による乳房の心的創造(ウィニコットによれば第一次的創造性)と、母親による現実的創造との間には、常に調整された微妙なズレがなくてはならない。そのズレの注意深い調整と反復、もっぱらそれにのみその後の展開、すなわち幼児による現実世界の学習、つまり外的現実という情報処理の一類型の定着がかかっている。》
《すでに述べたように、母親の出現以前に、主体ははやくもファンタスムという労働を行なっており、その知覚は、完全に自己循環的ともいえる演算を進めている。母親がさし出す知覚は、それを一歩とびこして、要約――先どりする。それは(ヘーゲル弁証法に敬意をはらって)同時に全体化とも言えるが、全体が、あらゆるものの総和でない以上、そこで行なわれるのは、アクセントをつける配置がえである。そして母親が、象徴のもとにあることから、この先取り(=母親の像)を通じて、幼児もFort―Daの象徴体系にはいり、このプロセスは、総体的に言語化されるが、それ以降も、そこで生じることは同じである。》
《主体のファンタスムにおける現前に、わずかなずれをもって現実をさし出し、それを先取り――要約――禁止しつづける母親を、ウィニコットはほぼ良い母親といっている。》
《もちろん、言語的交通によって生じる事態を、単純に表現できるわけなどなく、あなたのことばは、私のことばをしめくくり、意味をずらし、そして私の無意識の中のことばと照応し、私の語ったことと語らなかったことのつらなりをも変動させ、そのプロセスは無限につづき、等々、それを論じるには、おそらくハイデガーが哲学者として最初で最後に行なったような、そのゆらめきにつり合うだけの語り口をもって、そこに反照し合うしかない(それにしても、解釈学的循環などという鈍感なことばで要約するのは、あまりにおぞましい)。》
●資本主義(巨大な資本)は、情報処理速度の絶対的な優位によって「真理」と同等のものとなり、まるで母親のように主体を支配する、(絶対的な「力の差」が存在する)こと。資本主義の権力は常に、幾分かは(母親のように)「親切」であること。(「資本主義」から「ポストモダニズム」の項より)
《――じっさい五〇年考えて次の手を打った人がいるとすると、次に打つ人は、
――すでに支配されている。同じ手でも五〇年考えた方にとってはインプット済みだろうしね、打ち返した方にとっては未知の一手となる。つまり一つの振舞いが分離した意味をもつことになってね、結果として異なるレベルに分解して存在してしまう。
――事実上の真理が存在してしまう。しかもおそらくそれの方が本当の現実の姿で。
――そう。資本の真理。多国籍情報産業の真理というべきかな。真理ってのは自分で自分の声を聞く透明さとか自身との一致っていうんだけどね、なにも本当に透明、つまり情報処理時間ゼロである必要はなくて、無茶苦茶な処理速度をもったシステムがあればさ、それよりずっと能力の低い処理体にとっては真理みたいなもんで。何というのかな、その五〇年の待ち時間、……五〇万人の従業員かな、が逆転した速度の差になって現れてくるんだけど。つまり自己を支配する力の差というか、差異を支配する力の差というか……。それが正統性とか真理の物語というものを必要とせずにね、単なる事後的な事実関係の形でのみ、むき出しの能力の差で出てきてしまって。
――しかも見かけの上では、市場で対等なゲームを打っている、そしてその差はますます開く。特に第三世界なんかとの関係で。
――そう。それは何か隠蔽的イデオロギーとかいうのではなくてね。》
《――確かに近代が規則、というか規則の存在を予め明言する父‐子関係だとしたら、ヴィトゲンシュタインのいうゲームはその明言を封じた母‐子関係的ゲームだよね。
――うん。母親の行動ってのは、明らさまに規範を主張する父親みたいに登場するんじゃなくてね、子供のそのときどきの動きに応じて、自分を変えながら、しかもそれにうまーくそって、少しずつリードしながら子供をシステム化してっちゃう。
――遂行的支配。
――そう、今日の資本みたいにね。それはけっこう親切っぽい振舞いでね。しかもこっちは絶対そこから抜けられない。まあ力の差というのはそう固定的ではないかもしれないけど。この母‐子的というかファンタスム(幼児幻想)的な環境は相当根深い。》
●しかし、現在の汎資本主義化された世界における資本の支配は、「ほぼ良い母親」ではなく、「完全に良い母親」(ファシスト的世界)であるか「完全に悪い母親」(シュレーバー的世界)であるかに分裂してゆく傾向にあること。(「汎資本主義と<イマジナリー/近しさ>の不在」より)
《ところでこの未知性こそ、今日の、いわゆる汎資本主義といわれる状況の中で、苦痛の声をあげているものなのだ。一方に多言語的で極端に無秩序な壊乱と散逸、文化的遠心化、いわばリヴァイアサンを生じつつ、その裏返しに一種の飽和状態、私の無意識が外側に反転し、それが同型的にあなたとあなたの無意識であること、法と世界の臨界が目と鼻の先に近づき、そこにへばりついた他者には、もはや裏側がないような、ヴィトゲンシュタイン的な他者不在の世界。
(これと相補的なのが、レヴィナス、――ブランショ流の唐突な他者だ。すなわち、<私の語らないこと><私の語ること><あなたの語ること><あなたの語らないこと>を結節点とする、生成的な構造を、真ん中から左側か、右側に完全におり重ねること、――ちなみに、この四つの点を含む図は、クリステヴァナルシシズムの構造として与える横8字型のものを、もう一度右側でねじれば良い。彼女が与えるのは<対象以前の母><ナルシス的主体><想像的父>である。ところで、もう一度ねじることによってこの図が与えるのは、<自己組織化>的な図だが、それは$、a、a´、Aによってラカンが与えるZ型のものである。そしてヴィトゲンシュタインでもレヴィナスでもa――a´の変換的なイマジナリーな関係が、それぞれ<病気>にかかっているのだけれど、それ自体がひどく今日的だといえよう。すなわち一方では千日手を(一人で?)くり返すチェスのゲームプレーヤーが。他方ではゲーム停止命令のなかで宙づりの、こわばった<共産主義>が。あるいは、マルグリット・デュラスも……)。》