科学的、合理的な啓蒙主義の人が間違っていると思うのは...

●科学的、合理的な啓蒙主義の人が間違っていると思うのは、人は、合理的な事実(現実)を分りやすく啓蒙されれば(結局それを受け入れた方が現実上で自分が得をするのだから)、それを納得するはずだと思っているところだろう。最近つくづく思うのは、人は現実を生きているのでは決してなくて、ある種の幻想(理念とか信仰とか言ってもいいけど)によって、「自分」と「現実」とを媒介する(折り合いをつける)ことによって生きているのだなあということで(つまり幻想によってはじめて現実と折り合いがつけられる、ということで)、だから人間の生というのは幻想と現実の混じり合う場というか、争い合う場で営まれるもので、科学的(合理的)な記述(即物的な現実そのものやそのメカニズムに絶え間なく近づこうとするもの)は、その幻想の部分を扱えないから、その(それ自体としてはおそらく正しい)記述と、それを受け入れる人間とを結びつけることが出来ない。例え、科学的探求に自らの生を捧げてる人であっても、自らの生と「科学的な記述」を結びつける、何かしらの幻想的な契機があるはずだと思う。(例えば、たまたま自分がそれが得意だったし場も与えられたので、たんに職業としてそれをやっている、というような言い方には、必ず何かしらの照れや捩じれのようなものが含まれているように思われる。)哲学や文学や精神分析が嫌いで、そのような面倒で重たいもの(あるいは、そのような「迷信」)は排して、合理的で即物的な記述(対応)だけで生きてゆきたいと考える人も、そのような合理性への傾倒そのものが、その人独自のある種の「幻想」によって発動されていることにはかわりないと思われる。「幻想」を排したい、合理的でクールでありたい、という「強い欲望や衝動」そのものが、ある種の「幻想」の形態から発せられているのではないか。
例えば、何かしらの事業で莫大な成功を納めた人が、なんとも怪しげな「経営哲学」を持っていることはよくあると思われる。それは普通に考えればとんでもない、神懸かりな迷信のようなものだとしても、その人にとってはそれこそが、自らと現実を媒介し、つまりその人の商売を可能にしているだけでなく、その人そのものの存在をも支えている、という時、その人の成功を、全く異なる合理的な記述によって説明できたからと言って、その人はそれを納得しないだろう。商売で成功するということはたいへんなことだと思われ、つまりそれが可能だということは、先を見通す才覚があり、様々な現実的な問題の処理能力にも長けているはずで、つまりごく普通の意味で「幻想を生きている」ような人ではないはずなのだが(周囲の人からは、あいつはカネと女にしか興味がない即物的な奴だ、と思われているかもしれない)、しかしそれでも、その人の存在の根幹には何かしらの「あやしげなもの」が息づいている。勿論、そのような幻想は、一時的には上手くいっていても、必ず現実との間に齟齬が生じるはずだし、その齟齬を何らかのかたちで調整できなければ、その人は破綻してしまうかも知れない。しかしその破綻の原因は、その人の幻想が「あやしげなもの」であったからというよりも、人が何かしらの幻想を通してしか現実に触れられないという点にあるので、つまり破綻の可能性は全ての人が同様に持っている。あやしげな幻想を避け、クールで合理的な現実への対応だけで生きようとする人も、その合理性への強い傾倒を支える幻想の「あやしげな力」によって復讐されることもあるかもしれない。そういう人が、例えば、あやしげな新興宗教や、ある種の詐欺や、悪い異性に繰り返し騙されるようなタイプの人と、根本的に異なっているとは、ぼくには思えない。
柄谷行人が、理念を宗教的なものとしているのは納得できる。今後、もし、多くの人々を動かし、資本主義を揺るがし得る(あるいはそれと拮抗し得る)なにものかがあるとしたら、それは絶大な強度と密度をもった宗教的な言説の力なのではないだろうか。
●このような時に、「エスのあるところに自我をあらしめよ」という精神分析の「倫理」の意味がみえてくるように思う。つまりそれは、神や、真理や、普遍や、理念や、理想的な他者や、正義や、政治や、未来や、革命や、芸術や、恋愛や、そういった(大きな)幻想によって自分を支えるのではなく、(自我にとっては他者でもある)自分自身の無意識の強度のみによって(それのみを根拠として)、自分を支えろ、ということなのではないだろうか。(「欲望というリアルに従え」というのも同様のことだろう。)しかしそれは、ほとんど「人間」を超えた境地であるようにも思えるけど。(だがそれは、いわゆる「動物化」というのとは、かなり違う。)
●夜中にふと目が覚めてしまい、それっきり眠れなくなって、新潮文庫チェーホフの『かわいい女・犬を連れた奥さん』を本棚から取り出して、「中二階のある家」など最初の方のいくつかの短編を読んでいて、それでもまだ眠れなくて、上のようなことをぼんやりと考えた。チェーホフのいくつかの短編の主人公は、自分たちが生きる「現在」が、なにか悪魔的な力に呑み込まれた、とんでもないものになってしまったと認識している。自分たちより前の世代はもっと素朴に生きることが出来たし、自分たちより後の世代は、きっと自分たちより賢明になっているだろうから、この悪魔的な力が引き起こすひどい状態をどうにかしているだろう。しかし、自分たちは決してその賢明な次の世代には間に合わないで、この世界のなかで死んでしまうのだろう、と。チェーホフを読んでいると、人間も社会も百年前とちっともかわっていないように思えるのだけど、しかし(というか、だからこそ)今では、次の世代(による社会)が今よりも賢明なものとなっているだろうという希望を、ほとんど誰ももつことは出来なくなっている。