2021-07-05

ムージルの『トンカ(三人の女)』。これは難解な小説だ。カフカベケットには難解さを感じないが、ムージルは難解だと感じる。観念とロジックとイメージとを、普通ではあまり考えられないやり方でモンタージュしている。それがある圧縮された塊をつくっており、自分なりのやり方でそれを解凍しないと読み進められない。

古井由吉が書いていたが、トンカはおそらくチェコ語母語とする人で、身内や同族で話すときはチェコ語を使うが、村の外に働きに出ようとするとそこはドイツ語圏となるのでドイツ語で喋るのだろう。そういう環境が前提としてある。日常会話くらいのドイツ語は出来るが、自分の考えや感情の深いところまではドイツ語では表現できない。トンカが無口な女性であり、《彼》からは脱去するような存在であるように見えることの一因はそこにあるだろう。

主人公の《彼》はブルジョアのボンボンであり、自分が属するブルジョア的な「世間」を嫌って、合理的な化学を志すような人物だ。ブルジョアのボンボンが、素朴に見える異邦の女の中に神秘のようなものを(勝手に)見出して、惹かれて、結果として裏切られる。こういう話はおそらく掃いて捨てるほどある。そのようなクリシェをあえて採用し、クリシェをギリギリまで追い詰めて絞り込む。

《彼》を取り囲む強いブルジョア的な「世間の規範」があり、そこから脱するために《彼》が依拠する学問的、合理的な思考がある。しかし《彼》にはブルジョア的世界に対する愛着もある。母に対するアンビバレントな感情がそれを現わしている。母とヒュアチントとの関係に対する強い嫌悪など。ヒュアチントが体現するような「精神」こそがブルジョア的な規範であり、《彼》の学問は、ヒュアチントのようなブルジョア的精神への否定としてある。とはいえ、《彼》にとって「世界(現実)」は、ブルジョア的世間と合理的な学問という相容れないものの混交によって出来上がっている。

トンカは、そのような《彼》にとっての「現実」を揺るがす。それはまず、トンカの存在が素朴な生の肯定そのものであるように感じられるところからはじまる。トンカという存在は、《彼》にとって、自分が失ってしまった「世界への素朴な信仰」を体現しているように感じられる。《彼》は、トンカを愛することを通じて、世界を素朴に肯定するための通路を得るだろう。一方、そのようなトンカは、資本主義的な現実やブルジョア的な規範のなかで、貶められ、汚されて、みすぼらしい存在であるかのように扱われる。ブルジョアで学もある《彼》は、そのような女性を上から目線で保護しようとする。トンカも彼の愛を受け入れているようにみえる。

そんなトンカの元に、《彼》に由来しない妊娠と性病とが発現する。合理的に考えても、世間知的に考えても、トンカが《彼》を裏切ったとしか考えられない。しかし、トンカは裏切りを否定する。トンカが妊娠していること。トンカが《彼》を裏切っていないこと。この、相容れない二つの事実を共に肯定する(受け入れる)にはどうすればいいのか。これは、《彼》にとって「現実(世界のリアル)」をどのように構成(信仰)するのかという大問題である。《彼》は、観念とロジックとイメージとを駆使して、相容れない二つの事実の両立をなんとしてでも成立させようと試み、一瞬、成立できたと思い、すぐに、いや、そんなことはなかったと思う。このような必死な思考=試行をジグザクにつづけるなかで、《彼》にとっての現実がだんだんと解体されていく。観念とロジックとイメージのモンタージュは、徐々に夢のようなヴィジョンに近づいていく。

苦悩する《彼》の傍らに、トンカは常に存在し、しかし何も語らない。そしてトンカは、あっけなく死んでしまう。死ぬ直前にトンカもまた夢をみる。

《自分が間もなく死ぬことを、と彼女は言った、わたしは眠りの中で知りました。どうしてかわからないけど、とてもうれしく思いました。ひと袋の桜んぼをわたしは手に持っていました。その時わたしはこう思ったのです。まあ、どうしたの、その前に急いでこれを食べてしまわなくてはだめよ!……》

そしてトンカの死後、《彼》のもとに、「相容れない事柄を共に肯定する」という問題は偽の問題にすぎなかったとでも告げるようなヴィジョンが訪れる。

《彼はひどく疲れていた、彼は陽光の中に立ち、彼女は地下に横たわっていた、しかし何はともあれ、彼は光のこころよさを感じた。あてもなくあたりをながめている彼の眼に、不意に、大勢の子どもたちのうちのひとりの、泣きわめいている顔がうつった。その顔は真向から日に照らされ、いまわしい蛆虫のようにくしゃくしゃに歪んで、八方に伸びちぢみしていた。その時思い出が心の中で叫んだ。トンカ! トンカ! 彼は、足もとから頭までまるごとの彼女の存在を彼女の全生命を感じた。かつて知らなかったものの一切が、この瞬間彼の前に立っていた。眼から眼帯が落ちたような気がした。》

これは、小説の最初の方に出てきた場面の反復でもある(ここには、《彼》の愛情と同時に「上から目線」がみられるだろう)。

《たとえば、ある日彼はトンカといっしょに用足しに出かけた。道で子どもたちが遊んでいた。突然ふたりの眼に、泣きわめていてる小さな女の子の顔がうつった。その顔は蛆虫のようにくしゃくしゃに歪んで、真向から日を浴びていた。光の中にあるこの顔の無残な鮮明さには、彼には、彼らがその圏内から出てきた死にもまがう、生の啓示であるように思われた。だがトンカは、単純に「子どもたちが好き」なのだった。彼女はその女の子の方に身をこごめて、ふざけてみたりあやしたりし、この一件をおどけたこととしか感じていないらしかった。どんなに彼がむきになっても、この光景が外見ほど単純ではないのだと、彼女に悟らせることはできなかった。どの側面から接近しようと、彼はとどのつまりは、いつも変わらぬ彼女の心の不透明さにぶつかって立ちどまってしまうのだった。トンカは愚かではなかった。しかし何ものかが、彼女が賢くなることを妨げているように見えた。》