●(昨日からのつづき)ムージルの『トンカ』で、トンカの母語はおそらくチェコ語であろう。しかし、彼女の暮らす環境ではチェコ語はマイナーな言語であり、公的にはメジャーな言語であるドイツ語を使う必要がある。だからトンカは、働き口である《彼》の家ではドイツ語を使う。故に、ドイツ語では自分の感情や考えを十分には表現できない。
(これはたんに使用言語の熟達度の違いだけでなく、その言語を使うことではじめて表現し得る、ある文化的な体系のようなものも含めて「違う」のだ。)
一方、《彼》にとってドイツ語は母語であり、トンカに対してもドイツ語で話しかけ、そして、トンカがドイツ語を用いて《賢く》話すことができるようになることを(その要求が当然であるかのように)望む。しかし、《彼》の方はチェコ語を理解せず、理解しようと考えることすらない。ここに明らかな非対称性があり、《彼》の側の傲りが現れている。
しかしそれでも、トンカが《彼》に対して心を開いていたことを示すエピソードとして、トンカの故郷の歌を、トンカがその歌詞をドイツ語に翻訳して、二人で歌うという場面にあらわれていると思う。
《(…)夏だった。日が暮れると、空気が顔や手にちょうど同じくらいの温度に感じられ、歩きながら目を閉じると、からだが溶けて無限の中をただようような気がした。彼はそのことをトンカに言った。彼女が笑ったので、自分のいったことがわかるかと彼はたずねた。
ええ、わかりますとも。
しかし彼は疑い深く、きみ自身のことばでそれを話してごらんといった。彼女にはできなかった。
それではやはり、きみにはわからないんだ。
いいえわかります---そして突然彼女はいった---歌をうたわなくては。》
《(…)あるオペレッタの一節をトンカはうたったが、それはおそろしく下手だった。(…)おそらく彼女は、今までに一度だけ劇場に行ったことがあり、それ以来このあわれな音楽が、彼女にとっては、かがやかしい人生の神髄なのだ、そう、彼は考えた。だが実は、このわずかなメロディさえ、以前勤めていた商店の朋輩から聞きおぼえたものにすぎなかったのだ。》
《「うたいたいといったのは、本当はこんな歌ではないのです。」
彼の眼に好意的な光が浮かんだので、彼女はまた小声でうたいはじめた。しかし今度は、彼女の故郷の民謡だった。二人はそうやって歩いていき、そしてその歌の単純な節まわしは、日ざしの中で舞う紋白蝶のように悲しかった。この時、文句なしにトンカは正しいのだった。》
《(…)二人はいっしょにうたったのだった。トンカは彼にまず歌の文句を原語で語ってきかせ、それからドイツ語に訳してみせた。そうして二人は手を取りあって、子どものようにうたったのだった。息をつぐために途中で切らなければならなかった時には、彼らの前にいつも小さな沈黙があった。夕闇が彼らの行手にひろがっていた。こういうことすべてが取るに足らぬことだったにせよ、その夕暮れは、彼らの感覚とぴったりひとつになっていた。》