言葉はとりあえず同一性を確保してくれる

●言葉はとりあえず同一性を確保してくれる。例えば「愛」とか「政治」とか「セザンヌ」とか言った時に、人がそこにこめた意味(ニュアンス、記憶、密度)は人それぞれ異なるはずだし、それどころか同一人物においてさえ、発語の度に揺れ動いているかもしれないのに、それが同一の単語において語られることで、語り合う(例えば)二人に、同一の何かが共有されているがごとく感じさせるという作用をもたらす。愛について語り合う二人の意見が決して一致せず、食い違いつづけるとしても、その二人は、全く別の事柄についてそれぞれ勝手に話しているのではなくて、「愛」という同一の事柄に対する異なる意見や経験を語っている(交換している)かのように思うことが出来る。私の見ている青とあなたの見ている青が同じであるかどうか分らないという懐疑は、とりあえず、「青」という同一の単語を使って誰かと話している時に、「話が通じる」という事実によってしか解消されない。しかし、この世界に存在する無数のことなるニュアンスを持った「青」の多様性、あるいは、私が生まれてから今までに「青」という色彩から受けた様々な感覚的印象の総体を引き受けるには、「青」という言葉はあまりに粗雑過ぎる。しかしその粗雑さを一旦受け入れることで(つまり「青」の意味をどんぶり勘定で使うことを受け入れることで)、他人との「共通の話題」を確保できる。コミュニケーションとは、互いのことを厳密に理解しようとすることではなく、まず触れ合う感触のことであるから、コミュニケーションにおいて言葉は、常にどんぶり勘定で使われる必要がある。どのみち、言葉によって(ニュアンスや密度の)全てを語り尽くすことなど出来ないのだから、自分が喋り、相手が喋る言葉に厳密さを求めるよりも、どんぶり勘定を受け入れ、とりあえず「話が通じる」ことを優先させることで、言葉だけではないその会話の総体、喋り方や、言いよどみ、仕草、声や顔の表情の変化、ある言葉に対する特異な反応、等々の全てによって、とりあえず粗雑に選択された「青」という言葉にこめられたニュアンスや密度のある程度は、響きとして(ある厳密さをもって)聞き取れることもあるかも知れない。
(例えば、「芸術はコミュニケーションとは関係ない」(ドゥルーズ)ということは、あくまで「どんぶり勘定」を拒否して厳密さを優先すること、つまり目の前にいる他者との関係を一旦断ち切ることで、「ある充実した密度」を形成するための時間を確保するということで、それは今、目の前にいる誰かに向かっているわけではないが、しかし、ここではないどこか、今ではないいつかに、もしかしたら居るかもしれない誰か、には向けられている。作品という形式は、やはりどこかで、誰かによって聞き取られることを欲していて、そこから完全に手を切ることは難しいと思われる。)
でも、おそらく科学的な言説はそのようなものとは違うのではないか。おそらく科学は、この世界(現実)を出来る限り厳密に(広義の)言語によって記述しようとする営みで、だからそれは「誰か」に向かってなされるというよりも、それ自体で自律して(完結して)「世界」と拮抗することが目指されているように思われる。勿論、科学的な成果がテクノロジーや産業や政治に利用されることはあるだろうけど、科学はそれを目的としてなされているわけではないだろう。(例えば、人体のメカニズムについて研究することと、その成果を病気の人を治療するために利用することとは、別の事柄だろう。)だから、科学的な記述を積み上げて行く努力が、もし「誰か」に向かってなされているとしたら、それは「神」に向かっているとしか、ぼくには思えない。あるいは、神という言葉を消したいのなら、普遍性への信仰によって成り立っている、と。ドゥルーズだったら、この世界そのものに対する信仰と言うかもしれない。科学が、この世界そのものに「捧げられている」としたら、その記述は人間をはるかに超えたものへと向かっているのだから、これこそ本当の意味でコミニュケーションとは関係がない(のではないか?)。
●昨日の天気(今日の天気06/12/04)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1204.html