ラカンにおいて、精神分析医が

ラカンにおいて、精神分析医が患者に対してとる位置には三つの段階がある。最初に、「知っていると想定される主体」として、次に「対象a」として、そして最後に「もの」として、患者に対する。それぞれが、象徴的な他者、想像的な他者、現実的な他者、に対応する。最初に、象徴的な他者として患者に想像的な場への退行をうながし、次に想像的な他者として患者を現実的な場へ促す。最後に「もの」としての分析医が、「知っている主体」を患者の無意識へと返すことで、分析は終了する。もとよりこれは理論的な枠組みとしてであって、これが実際に可能なのかどうかは、よく分らないけど。
精神分析形而上学を否定した。精神分析によれば、真理も正義も理念も、全て失われた「母親との完全な合一」の代替物であるということになる。そして人は、意識(言語)の場にいる限り、このことに永遠に気付かない。だが、この「母親との完全な合一」ということ自体が、既にあり得ないフィクションである。人は赤ん坊の頃から既に抑圧を抱えている。母親は、赤ん坊の欲求を完全に満たすほど完璧な存在ではないから、赤ん坊は常に不満を抱いている。この不満は蓄積して母親への攻撃性となる。しかし赤ん坊は、自らの生存の全てを母親に依存しているから、母親への攻撃はそのまま自分への攻撃になってしまう。(母親に愛想を尽かされたら死んでしまう。)だから、赤ん坊は母親への攻撃性をなかったものとして意識から除外し、抑圧する。(母親に欲望されることを欲望するようになる。)この抑圧の反動が、ありもしない理想的な状態としての「母親との完全な合一」という幻想をつくりだす。つまり「母親との完全な合一」という「良いもの」としての平和な幻想には、常にその裏側に強い攻撃的な衝動が貼り付いている。そして、抑圧されたものの回帰は、決して意識(主体)によってコントロール出来ないから、人は想像的な場にいる限り、くるくると反転する愛と憎しみという不安定で癒着した他者との関係しかもつことが出来ない。
人は、象徴的なものを受け入れ、象徴界へと参入することで、「母親との完全な合一」という意識下ではたらく欲望(幻想)の代替物としての理想や正義(という象徴的な価値)を獲得する。それはもともとあり得ないものであるから、人は決してそこへたどり着くことはない。(あるいは、輝きはたどり着いたとたんに消えてしまう。)そこでは、無意識の拍動によって回帰する攻撃性は、理想や正義を実現するための(現実を変えるための)能動的な原動力として変換される。(勿論これは良いことばかりではない。人は正義のために戦争をし、理想のために人を殺す。これは愛の裏に貼り付いた憎しみによる暴力よりも、より組織的で、強力にはたらくだろう。)
人は、理想に破れたり、(象徴的な価値を保証してくれる)仕事に失敗したりすると、想像的な場へと退行する。象徴的な価値が、「母親との完全な合一」の代替物であることによって、まるでそれを手にすることで世界全体を獲得したかのごとき満足が得られる(と期待されている)ものであるのに対し、想像的な場での満足は、常に部分的で断片的なものである。(象徴的な場で、人に「真理」を有しているかのように期待させる他者が「知っていると想定される主体」で、想像的な場で、人に部分的な満足を与えるかのように期待させる対象が「対象a」である。)世界を革命する意思に破れた者は、身近にある限定された小さなもの、ささやかなものの輝きを発見する。しかしそれもまた、細かく砕かれたとはいえ、「母親との完全な合一」という幻想によって(母に欲望されることを欲望するという欲望によって)支えられている。会社での出世を断念した男が、妻や家族との愛につつまれたあたたかな家庭を発見し、そこに回帰したとしても、それもまた、(けっしてあり得ない)幻想に支えられたものであることにかわりはない。しかも、想像的な場においては、抑圧された攻撃性が回帰する時に、それを「現実を変革する能動性」へと変換させるような象徴的な装置が作動しないので、攻撃性はナマのかたちで露呈してしまう。ここでの対他関係は、幼児的な依存の感情によるから、そこでは、まったりとしたおだやかな愛が、突然、抑え切れない憎しみへと反転する。つまり突如キレる。(これはまるで、モダン=一神教からポストモダン=多神教へ、という話みたいにもみえる。)
象徴的な場から想像的な場へと退行した主体が、愛と憎しみが不安定に反転する幼児的、癒着的依存関係から脱するためにまず考えられるのが、ニヒリスティックな、あるいはアイロニカルな主体となることだろう。それは、象徴的な享楽からも想像的な享楽からも屈折した距離を置くということであり、つまりは、享楽を踏みにじることの享楽によって生きるということでもあろう。しかしラカンによる精神分析の第三段階はそのようなものではない。それは、象徴的な価値によっても、想像的な幻想によっても媒介されることのない、より直接的、身体的快楽によって「主体」を支えるということなのだと思われる。ここでは、より直接的、動物的(つまり想像的、身体的、性的)な快楽が肯定されるが、しかし、その快楽が象徴や幻想と結びついてしまうことを、その都度引きはがす知性もまた、同時に要求されている。(つまり、他者がら与えられる快楽=充実の具体的な手触りや密度こそが、主体を対象関係の刻印(幻想)から切断することを促すのだが、それを味わうには高度に知的であることが必要とされるから、人は一度は徹底して象徴化=言語化の洗礼を受ける必要があろう。)人間においては、新生児と母親との関係は決定的に強いものであるから、母親が与えてくれる身体的な快楽は、すぐさま、「母親」という普遍的な「良い対象(幻想)」と結びついてしまう。だから、他者によって与えられた快楽もまた、〈母親という「良い対象(幻想)」〉へと結びつく。そうではなく、自分に快楽(充実)を与えてくれる対象を、その対象自身として(世界を革命するものでも、母と言う普遍的な「良い幻想」に繋がるものでもない、限定されたそれ自身として)受け入れ、その快楽の個別性、固有性に留まるということであろう。(そこであらわれるのがつまり「もの」としての他者ということだと思う。)それはまた、そこで快楽(充実)する主体である「私」自身もまた、限定され、制約されたたたんなる一つのものとしての身体でしかないことを受け入れるということだろう。(これが「去勢」ということだろう。)つまりそれは、私が、私の「身体」(と無意識、あるいは症候)によって規定された、限定的な関係と限定的な「快楽(充実)」のみに支えられて生きるということだろう。(勿論この過程は、意識=言語の次元では決して「主体」に知らされないので、一旦、想像的な場へと退行することによってしかなし得ない。そして、この過程を導くのはあくまで「もの」としての他者であって、主体自身ではない。)「知っていると想定される主体を、患者の無意識へと返す」とか、「汝の欲望に譲歩するな」という格言は、このような意味のことだと思われる。
(ぼくのラカンへの理解は、多くの部分で樫村晴香樫村愛子に負っています。)