08/01/28

●もし、自然のなかには線などないのに、絵画のなかには線があることに驚くのなら、ただそこにある絵の具(チューブのなかの絵の具、パレットの上の絵の具)と、絵の上に置かれた絵の具とがまったくことなる質を持っていることにもまた、驚かなくてはならない。絵の具は、たんに物質としてある状態から、表現の質に変化することで、絵画の一部となり、絵画を成立させる。ただ、絵の具としてうつくしいというままでは、それは絵画とは成り得ない。(余談だが、線を引くということは、決して形態や意味を確定し、固定させることではない。線を引くということは、空間をどう捉えるのかということであり、その空間のなかでどのように動くのかということでもあり、そしてまた、その動きをどう捉えるのかということなのだ。これは別に抽象的なことではなくて、普通にデッサンを描く時にこそ、そうなのだ。)
別に絵画でなくてもいい、自然のなかにある物質、あるいは、ただそこにある物質が作品となるには、それが表現の質へとかわる必要がある。作品は、ただ自然の模倣であるのではないし、ただ頭のなかの模倣であるのでもなく、その中間に、それらを響き合わせる媒介としてある。たんなるノイズとしての身体の発する音-声が、表現の質としての叫びへ(あるいは歌へ)と変質する時、その叫び(歌)は、自然でもなければ記号でもない。ピッチャーの投げる豪速球は、自然でもなければ記号でもない。セザンヌのひとつのタッチは、自然でもなければ記号でもない。それは、意味以前にありながらも、読み取られることを待つものであり、何かを組み立てる単位となり得える固有性を保持し、意味へと向う萌芽、指向性をもつ(指向性であるに留まる)。「表現の質」はおそらく、自然(事物)から記号へと変質する途上で生まれるものなのではないか。そして作品は、それら「表現の質」を合成し、組み立てることによって成立する。
だから作品は、意味でもなければ無意味でもなく、構築でもなければ生成でもなく、分離でもなければ融合でもなく、その境目にあり、境目を通り抜ける力のことであり、その場所でしばし自身の姿を留めようとする作用のことだろう。