08/01/27

●随分と久しぶりに都心にまで出た。日曜に出掛けると、街中に人が多いのはまだしも、店のなかまでも人でひしめきあっていることにうんざりしてしまう。
●『彼女たちの舞台』(ジャック・リヴェット)をDVDで。(日記には書かなかったけど)昨年末に『嵐が丘』をビデオで観直した時も思ったのだけど、リヴェットが本当に面白いのかどうかはもはやよく分からないし、そんなことはどうでもいい。ただ、ぼくはとてもこれが好きなのだということを、何度も改めて確認することが、ぼくにとってリヴェットを観るということなのだった。リヴェットはただひたすら、人物を動かすことを通じて、カメラによって空間を記述し、事物を描写しているだけなのではないだろうか。『嵐が丘』なんていう物語や小説に、リヴェットが本気で興味があるとは思えないし、もし、興味があるのだとしても、それとこの映画とはあまり関係がないように思える。『嵐が丘』にあるのは、ただある田舎の風景や風土であり、土地の起伏であり、そこに生える植物であり、そこにある建物であり、そこで使われる農具や家具や食器であり、そこに射す光であって、ドラマではまったくないように思えた。ただ、カメラがある時間の持続のなかでそれを捉えるためのシフターとして、まるで機械仕掛けのような人物が、そのなかを移動し、なにかしらの身振りをみせる。
『彼女たちの舞台』には、多くの女優が出演しているが、そこにあるのは、演じる身体の提示でもないし、火花を散らす演技合戦でもないし、それぞれの人物のキャラクターやその関係の描出や、そのダイナミックな変化でもない。(いや、それらのすべてであるのかもしれないが、それらは皆ゆるいものでしかない。)繰り返される演劇のリハーサルは、別に、演じる身体の二重化のような意味をことさら担っているとも思えない。演劇のリハーサルは、ある一定の緊張を保ちつつも、(物語に従属しない)だらっと流れる時間そのものを映画にもたらすことが出来るという理由からだけ、選択されているように思える。そこにある行為は、登場人物の存在の危機に関わる切迫した状況から脱するためのものではなく、あらかじめ書かれたテキストに基づく、反復することを前提とした身体の動き(行為)であり、発話である。しかしそれは、演劇の(決して、やり直しのきかない本番ではないが、本番-未来に向けて何かが真剣に探られてはいる)リハーサルであることによって、一定の緊張は保たれる。(「遊戯」というのはそういうもののことだ。)
あるいは、たんにリヴェットは、この小さな劇場の空間が好きで、この空間のもつ様々な潜在性をカメラによって記述したいためだけに、延々と女優たちにリハーサルをさせつづけているようにも思える。
女優たちは、ことさら強くその身体を提示されたり、あるいは、それぞれの間に激しい葛藤や摩擦といったドラマが生じたりするわけではない。彼女達は、例えば、テーブルの上に、様々な皿や、壜や、コップや、パンや、果実が、びっしりと置いてあるのと同じように、あるいは、建物のなかに、タンスや、テーブルや、ソファや、ベッドや、暖炉や、階段が、配置されているのと同じように、映画のなかに配置されている。ただ、彼女たちはそれらの事物とは異なり、空間を移動し、その関係を変化させ、身振りを示し、服を着替え、声や言葉を発するので、映画のなかの時間を起動し、生成し、それによって空間や風景や事物の様々な側面が順を追って顕在化される。
リヴェットにとって重要なのは、ドラマでも物語でも、演じる身体の強度の提示でもなく、おそらく空間や事物の描出と、それに伴う時間の生成であるのだから、ドラマや身体やアクションが、強く、熱く、濃く、出て来てはいけない。しかし、適度な緊張と関心とを持続させなければならない。完全にダレてしまってもいけないのだ。リヴェットの映画に頻出する、紋切り型の物語、謎や陰謀、(順列組み合わせ的な)幾何学性、チープな神秘主義、演劇(遊戯)的性格等は、決して本気でのめり込んだりしない、切迫性のない、しかし弛緩し切ってもしまわない、適度にリラックスしながらも一定の緊張を保った状態を、長時間持続させるために要請されたのものように思われる。
最も重要なのは、そのような冗長な時間をつくりだすことそのものにあるのかもしれない。冗長な時間のなかでしか感得されない何かを捉えること。あるいは、そのような時間のなかにしか生まれない何をつくり出すこと。ひたすら遊戯のための遊戯としか思えないひきのばされる時間が必要なのは、そのためなのだろう。リヴェットの映画は、何かを示そうというよりも、出来るだけ映画の時間をひきのばそう、終わりを先送りにしようという欲望の強さによって、際立っているようにもみえる。いつまでも映画のなかに居たい、映画館を出て現実に戻りたくない、本番-決定-目的に至りたくない(それ以前の猶予に留まりたい)、という退行的な欲望が、映画をつくらせているのではないかとさえ思える。それは決してバカにされるようなことではない。世界は現実によって覆い隠されているのだし、人間の生は必ずしも現実のなかにあるわけではないのだから。
●でも、こういう映画って、自分に、時間的、精神的な余裕がない時には、全然うけつけられなかったりもする。