08/01/26

●昨日、『白暗淵』(古井由吉)の「潮の変わり目」を読んでいて、フーコーがビンスワンガーの「夢と実存」の「序論」として書いた文章の、想像と夢の関係に関する、次に引用する部分を思い出した。おそらくここでフーコーは、あからさまに恋愛について語っているのだが、恋愛ついて語る時のフーコーは、徹底して「たった一人」である。「誰かを想像する」ことによって、最も徹底して、最も深く「たった一人」となる、という感触が、いかにもフーコーっぽいと感じる。古井由吉は、たった一人であることの底で、ある匿名の「女」に出会い、みずからの分身に(再度)出会い、集合的な何かに触れる感触もある。しかしそのような出来事全体が、最終的には古井由吉という「たった一人」へと還ってくるという意味で、フーコーと通底する。(ただ、「潮の変わり目」の最後に唐突にあらわれる「春の気配」(死の先にある未来の気配のような感じ)は、それをも突き抜ける何かであるかのようだ。)
《今日私は、ピエールがこのニュースを聞いたらどうするだろうかを想像してみようとする。言うまでもなく、彼の不在が私の想像力の動きをとり囲み、これを制限してはいる。だがこの不在は、私が想像力を働かせるに先立って、しかも暗黙のうちにではなく、かれこれ一年以上も彼と会っていないことへの後悔というきわめて急迫した様態で、すでにそこに現前していたものである。この不在は、かつて彼が立ち寄ってくれたときの痕跡をいまなおとどめている見慣れた事物のうちにまでも、すでに現前していたのだ。このように、彼の不在は私の想像力に先行し、これを彩ってはいるのだが、だからといって、この不在が私の想像力の可能性の条件だということにはならないし、その形相的指標なのでもない。仮に私が昨日もピエールに会っており、そして彼が私を苛たせたり、あるいは侮辱したりしたのであれば、今日私の想像力は彼をあまりに私に近づけてしまい、私はそのあまりに生なましい現前にむせかえってしまうことだろう。》
《想像のなかで彼が部屋にいるのを見るというとき、私は、自分が鍵穴から彼をうかがっているとか外から彼を眺めていると想像したりはしない。私が魔術によって見えないままで彼の部屋に入ってゆくというのもまったく正しくない。想像するとは、こまねずみの寓話を実現することではないし、ピエールの世界に身をはこぶことでもない。それは、ピエールのいるその世界になりきることなのだ。私は彼の読んでいる手紙であり、注意深く読み進める彼の視線をおのれのうちにとり集めている。私は、彼をあらゆるところから観察しており、そしてまさにそれゆえに彼を「見る」ことのないその部屋の壁なのである。だが、私は彼の視線や彼の注意でもある。私は彼の不満であったり彼の驚きであったりする。私は単に彼のおこなうことの絶対的な主人なのではなく、私は彼がおこなうそのことなのであり、彼がそれであるところのものそのものなのだ。それゆえ、想像力は、私がすでに知っていることになに一つ新たなものを付けくわえたりはしない。だが、だからといって、想像力は私になに一つもたらしもしなければ教えもしない、と言うもの正しくない。》
《私がピエールを想像するとき、なるほど彼は私に従い、その所作の一つひとつは私の期待に応え、ついには私が望めば私に会いにきさえする。だが、想像的なものとは、そこで私が未知のことをなに一つ学びはしなくともそこにおのれの運命を「認める」ことのできるような、そうした超越としておのれを告知するものなのである。想像においてさえ、というよりむしろ、とりわけ想像において、私はおのれに自身に従いはしないし、またおのれ自身のとりこになっているというそれだけの理由からしても、おのれ自身の主人ではない。私がピエールの帰還を想像するとき、私はいたるところにいるのであり、彼のまわりにも彼のなかにもいるのだから、私は彼と顔をつきあわせるわけではない。私は彼に話しかけるわけではないが、彼としゃべりはする。私は彼と共にいるわけではないが、彼に「喧嘩を吹っ掛け」はする。またそうであればこそ、私はいたるところにおのれを見いだしおのれを認めるのだし、この想像のなかで私はおのれの心情の法則を読み解き、おのれの運命を読みとることにもなるのである。》
《想像するとはむしろ、おのれ自身をおのれの世界の絶対的な意味として指向することであり、おのれ自身を、みずから世界となり、ついにはおのれの運命であるこの世界にしっかりと根を下ろすような、そうした自由の運動として指向することなのである。してみれば、意識がおのれの想像するものを通して指向するのは、夢のうちであらわになる本源的運動だということになろう。そうなると、夢みるとは、ことさらに強く生きいきと想像する仕方などではないことになろう。逆に、想像するとは夢のただなかでおのれ自身を指向することであり、つまり想像するとは、夢みているおのれを夢みることなのである。》
《私がピエールの帰還を想像する場合に本質的なのは、私が門を飛び越えるピエールの心像をもつ、ということではない。本質的なのは、私の現存在が、夢における偏在性にゆきつこうとして、おのれを門のこちらがわにも向こうがわにも配分し、帰ってくるピエールの思いのうちにも彼を待っている私の思いのうちにも、彼の微笑みのうちにも私の喜びのうちにもあますところなくおのれを見いだしながら、夢のなかでと同様に、この出会いがまるでおのれの実存の成就ででもあるかのように、それへ向けられている実存の運動を発見するということなのである。》