2021-08-01

ボルヘスの「円環の廃墟」では、「男(彼)」が夢のなかで一人の人間を作り上げて、それを現実のなかに実在させようとする。以下、牛島信明・訳。

《彼の行動を導いてきた目的は、たしかに超自然的ではあるが不可能なことではなかった。彼の願望は一人の人間を夢に見ることであった。その人間を細部にいたるまでそっくり夢にみて、現実の世界に置いてみたかった。この神秘的な意図が彼の魂をすっかり奪っていたので、かりに誰かが彼の名前を聞いたり、彼の以前の生活について何か尋ねたとしても彼は答えに窮してしまったことであろう。この崩壊した人気のない神社には、眼に入るようなものはほとんどなかったので、彼にはうってつけであった。また彼の質素な食事の面倒をみてくれることになる農夫たちが近くに住んでいるとも好都合だった。彼らが施してくれる米と果実は、ただ眠り夢みることに従事している体には十分な糧となった。》

ネタバレとなるが、上の部分で「彼」が名前も来歴も答えられないと書かれていることは、完成した「夢見られた人」を現実へと送り出す時、「彼」が「夢見られた人」からその成長の記憶をすべて消してしまったこと、そして、最後には「彼」自身もまた他の誰かに夢見られた人であったと分かるということ、を考え合わせれば、(「彼」もまた他の誰かから記憶を消されたのであろうと考えられるから)いわゆる「伏線」となっていると言える。また、書き出しの部分で、「彼」がこの神社のある土地に現れたところを《見た者はいない》と書かれることもまた、「彼」が(川をさかのぼった別の土地から来たというより)現実ではない別の場所からいきなり現れたのだということを暗示している。そして、「彼」の来歴は、後付け的に「伝聞」としていつの間にか土地の人に理解されている。「彼」が現れるところを《見た者はいない》のに、「彼」の来歴を《知らぬ者はな》いのだ。上の引用からすると、「彼」が自ら話したとは考えられないのに。

この小説では、夢と現実とが反転する場面というか、「夢見られた人」が夢から現実へとせり出してくる場面は描かれない。おそらく意図的に書き方が曖昧になって(どちらともとれるようになって)はいるが、「彼(夢見る人)」は「夢見られた人」と夢のなかでしか会っていないように読める。「彼」が夢のなかで「夢見られた人」に山の頂に旗を立てるように命じ、そして「彼」が目を覚ますと、現実の山に旗が立っている、という具合になっている。夢と現実は、どこか不可知の場所で繋がっていて、その境界線や通路は見えない。夢と現実とはメビウスの帯の裏表のようにして繋がっていると考えられる。

《彼は徐々に子供を現実に馴致させていった。ある時は、遠くの山に旗をたててくるように命じた。翌日、その頂には小旗が炎のようにゆらめいていた。これに似たような訓練が繰返されたが、それはしだいに大胆なものになった。息子はもう生まれ出る準備ができた---おそらく出たがっている---ことを見てとり、彼は寂しい気持ちになった。その晩初めて息子に接吻し、下流にある神社に送り出したが、その社の白っぽい廃墟は、何マイルも続くうっそうたる森や沼の向こうに仄めいていた。別れる直前に(子供が、自分が幻影であることに決して気づかないように、そして、すべての人たちと同じ人間であると思うように)、彼は息子の頭から師弟時代の思い出をすべて消し去ってしまった。》

「夢見られた人」を夢のなかで送り出した後、「彼」は「夢見られた人」が実在するのをただ「想像」し、「伝聞」によってその存在を確認する(しかし、この「伝聞を伝える者」の《顔は判然としな》いので、実在するのか怪しい)。「想像する」ことは「夢見る」ことよりずっと弱いが、「夢見られた人」はすでに実在するのだから、もはや夢を見る必要はなく、ただ想像すれば足りる、ということか。

《彼の勝利と平安は倦怠によって損なわれ始めた。明け方や夕暮れの薄明かりのなかで、石像の前にひれ伏しながら、彼は、おそらく非現実の息子もはるか下流の円形の廃墟で、同じような秘儀ををとり行っているだろうと想像していた。もはや夜に夢見るようなことはなかった。いやむしろ、普通の人間と同じような夢を見たというべきだろう。宇宙の形態や音を知覚する力がしだいに弱まっていたが、それというのも遠く離れた息子が、この魔術師の魂を呼吸して滋養としていたからである。人生の目的を達成し、男は一種の恍惚状態を漂っていた。かなりの時が経過した(ある物語作者はこれを数年と、また他の作者は十年近くと言っているが)ある深夜、彼は二人の船頭によって起こされた。二人の顔は判然としなかったが、彼らは、火傷もせずに火の上を歩くことのできる、北方のある神社の魔術師について話した。それを聞いたこちらの魔術師は不意に神の言葉を思い出した。この世のあらゆる存在のうち、彼の息子が幻影であることを知っているのは「火」だけであることを思い出したのだ。この回想は最初彼に安堵感を与えたが、ついには不安をかきたてるようになった。息子がおのれの奇妙な特権を不思議に思い、なんらかの方法で自分が幻影にすぎないことを見抜いてしまうのではないかと恐れたのである。》

そして、この「彼(魔術師)」自身もまた、自分が何者かによって夢見られた幻影であったことを知るところで小説は閉じられる。このことは、永遠に、あるいは円環的に流れる川と、そこに点在する無数の神社の廃墟があり、夢見られた者が、夢を見ることによって、夢見る者をつくりだすという循環が無限に繰り返されている(というより、夢見られた者が、夢を見る者を夢見て、そこで夢見られた者が、さらに夢見る者を夢に見る…、という、無限の入れ子構造と言うべきか)ような世界が想像される。

《小鳥の鳴き声も聞こえない明け方、魔術師は旋回している焔が頭上にふりかかって来るのを見た。とっさに川に避難しようと思ったが、すぐに、自分を苦悩から解放し、その最期を美しく飾るために、死がやってきたのだ、と悟った。彼はめらめらとはためく焔のなかに進んで行った。焔は肉をかむどころか、愛撫し、焼くことも熱を感じさせることもなく、彼をくるみこんだ。安らぎと屈辱と戦慄のなかで、彼は自分もまた、誰か他者が夢見ている幻にすぎないことを理解した。》